「花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ」(:井伏鱒二)だったり
「さよならだけが人生ならば また来る春はなんだろう」(:寺山修司)だったり──
選択できる別れもあれば、時間やルールに引き裂かれるだけの別れもある。「別れ」に私は弱い。その度にしめっぽくなる自分がもどかしい。よりより未来のためになればと受け止める他ない。しかしそれも簡単じゃない。何が正解だったのか分かるのはずっと先のことらしい。
人生が無常だってこと、忘れてました。
そんな私が生きてる意味なんてあんまり挙げらんないですが(暗い)、しかし死ぬ選択に至らないのは、「親に喪主なんかさせらんないだろ」というのがやっぱり大きいですね。(なんの話だ
公開からもうすぐ一ヶ月。
ややミスリードにも思えたキービジュアルのふたりの関係についても、公式トレーラー(第二弾)ではむしろ伝えたがってるようになってたので、冒頭/アバンの範囲などはもうネタバレもなにもないでしょう。イントロダクションの範疇ですよ。ネタバレへの配慮とか緩めにしても、もういいよね?
「もういいかーい?」「もういいよー」(『あの花』観返してました)
気になったところ
本作の売りの一つが作画だというのは揺るぎないところで反対意見も特にないと思うんですが、まあ私、目が悪いので特に「ここは優良作画だ!」みたいなのは拾えず……。
観た人なら「ああ、あっこね」くらいの、これからの人は観るときに「ああ、ここか」くらいのふわふわした書き方になる。
序盤:マキアの走り方
村の危機が訪れてマキアが長老を探す場面。マキア自身は必死なんですけど、肘を曲げない走り方、肩から肘までしか意識のいっていないような走り方(もっと言うと足でしか走ろうとしない)が、マキアは運動が苦手でどんくさいキャラクターなのだということをわかりやすく示してる。塔の扉の前で「開けて~」と手をたたくときも肘よりも肩を使うおお振りなペチペチした動きでした。個人的にこっちが好き。
思えば、
海に飛び込めない思い切りのなさ、クリムの言葉に甘える安全体質、レイリヤたちに比べてより幼い顔の作りと背格好、タレ目補正も相まって序盤でこの子はまだまだ未熟なのですって描写がぽんぽん出てくる。
その極めつけとしてのあの走りだったかなと。
省略したカット
クリムに頼まれて長老を呼びに行く(知らせに行く?)マキアのカットの繋ぎが凄い良かった。
クリム「マキアは長老を!」→マキア、村の方に走る→長老の部屋ガチャ開け「長老!」
ここ。村の外観とか当然あるであろう部屋までの廊下とか全部すっ飛ばしていきなり「長老!」。これは気持ちいい。
レナトから逃げるマキア
塔のなかでレナトに追っかけられるところ、ドリーバックしながら画面手前に逃げるやつ。しかもカーブしながらってのがまたややこしいことになってるなあなんて。腕の振りがちょっと違ってたので原画マンも変わったんだと思う。
『宝石の国』第10話でもあったああいう構図。個人的に「ゴエモン3」って呼んでます。まあジュラシックパークでもなんでもいいんですけど。
イオルフの村パートはこれぐらいでしょうか。
どうやらアニメを観る目がないようだ。
崩れて切り離された雪の塊が噴水の貯まりから下の階層に落ちるのが「村を出て外の世界に行く」とリンクしてたけど、そのあたりの演出はまあいいや。
母親の指パキパキ
あれがいわゆる死後硬直ってやつなんだと思います。あのパキパキはちょっとびっくりした。あれは骨なのか硬くなった筋肉なのかはよくわからないが「すごい力……」はなんか的を射てきれてないような……まあこまけえことはいいんだよ。母親の愛なんだよ。
ここでエリアルとマキアの関係が作中でおおやけになるわけですね。
(注:初回鑑賞時、あらすじもトレイラーも一切目を通していない状態でした)
キービジュアルを見たときに、「二人は恋人なんだ。これは悲恋の物語なんだ」と思いこんでたけど、なるほどそういうことかと。
「この子はエリアル」と明確に名前が出るのはもうちょいあとですけど、キービジュの彼がこの子なんだなってことはアバンのうちに繋がるでしょう。
で、「へんな匂い、おひさまの匂い」からタイトルがふわーと……
すいません、画像貼り間違えました。
タイトルが出て、こっから物語が始まるわけですね。
ここでトレイラーをどうぞ。
ああ、昔に戻りたい……。
悲しいかな、人生ってのは上映される映画と同じで巻き戻しが効かないんです。つらい。でも映画は何回でも観られます!
荷送り船のエリアル
クリムとマキアの会話の最中に、エリアルがマキアの顔を見るカットがよかった。マキアに前で抱かれる体勢(膝の上あたり)から後ろを振り向くために首をめいっぱいに捻るときに、胸というか胴が前にすっと伸びる。人体の基本的な動きではあるんですけど、ああいうのを見つけられると「そう、そうなるんだよな」と心のなかでサムズアップ。
さよならの向こう
アバンが終わった時点で私のなかの3割くらいは、「長命であるイオルフの民と普通の人間が出会ってしまった」ことで導き出される”物語的なオチ(クライマックスと言い換えます)”はグリーンマイル的なことになるんだなと思ったんですよ。正しくは「グリーンマイルがそれをすでにやってるけど、どうすんの?」みたいな気持ちでしたが。『グリーンマイル』のネタバレにもなりましたね。許してヒヤシンス。
つまり、(自分は)事故や不幸にでも見舞われない限り、ずっと見送る側の人生を歩み続けないといけないあまりにも深い業をしょってしまったのがグリーンマイル(-の主人公ポール)であったのに対し、今回のマキアはその運命が先天的だった。そこが長老が説いた「愛するものを見つけると本当の一人になる」のほんとうの意味に繋がってくる。二段構えである。主軸としていいテーマ。
失わずして一人にはなれない。残されてからが一人。
なので、あとはその軸に沿って物語が進んでいってるので、予想外のことが起こって「あれ、これもしかしてオチ読み違えたか」ってポイントはない。戦争が始まっても、いま死んでしまったら設定が活きないとかマナーの悪い思考がよぎる。
「オチはこうだろうな」と観客に思わせること自体は全く悪いことじゃない。観客に一本の筋道、つまり予想を立てさせてこそ、「予想を裏切る展開」ができるわけですから。
だから大事なのは、落とし所といいますか、オトシ方ですよね。映画一本を通して、およそ100分の時間をかけて描きたかったものが最後に提示される。
約100分間にも関わらず、物語のなかでは幾星霜のときが流れていた。短い視聴時間のなかで私達は、マキアと一緒になって、あたかもエリアルを育てていたかのような/見守っていたかのような錯覚を感じさせられる。長い時間を共に過ごした”家族”のような気持が芽生える。(大袈裟
マキアとエリアルが互いを長い間思い合っていたように、観客もふたりの人生の行く末が気になるようになっている。寂しい別れを十分に予感しながら。
二人に対する観客の距離感、このギャップをしっかり埋めていたのが、最後のパートにすんなり入っていける土台つくりとしてナイスなところだと思います。逆に最後ハマんなかった人はこのギャップ/溝が埋まりきってなかったってことなんじゃないかな。キャラクターと距離が開くと「どうしてこんなに泣いてるんだこの人は」ってやけに冷めた自分を発見したりして。『あの花』を観てるときの私がそうだった。それはおいといて。
物語の綴じ方
ラストのラストは……悲しいなあ。いや寂しい、なのか。
でも、肯定するんですよ。
全部、紆余曲折、波乱万丈、幸不幸、悲しみを経て、大事な人も失って、すべてを辿って、それで、それでも、ふたりで歩んだ時間を、ヒビオルを全部肯定する。
失うくらいなら出会わなければ。
裏切られるくらいなら憧れなければ。
こんな思いをするくらいなら花や草に生まれたかった?
そうじゃないんですよ。
花や草に生まれてたら誰かを愛することもできなかったんですよ。人間に生まれて、出会ったから愛せたんじゃないですか。
捧げたその愛情は絶対に本物じゃないすかやだー。(照れ
そういう「愛して、よかった」なんですね。なんだか『永遠の僕たち』を思い出しましたね。(ページ最後【参照リンク】参照のこと)
……。
ダメだ、思い出したらまたヘコんできた。
グリーンマイルを引き合いに出しましたが、グリーンマイルでは描いてなかったものを描いてましたね。あれよりもより詳しく、より濃密に。疑ってかかって申し訳ない。
だらだら書いてきて最後にチープな総括ながら言わせてもらうと、
「本編を観てお楽しみください」に尽きる。結局のところ。
あとは本編とは関係ないけども「映画は人生の予習である」これですね。これを伝えたい。同年代とその下の方々には。
少年期のエリアルを演じていた櫻井優輝さん(劇団ひまわり)、五億点ですわ。あれはちょっと卑怯だよって文句言いたいくらい。
続きは演出のメモとか。
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