食べ残しの描写がもたらすキャラクターへの悪い印象について。
フード理論の切り口で言うならば「悪人は食べ物を粗末に扱う(≒善人は食べ物に敬意を払う)」といったところでしょうか。
このクリシェというかステレオタイプな演出も兼ねて、”ちゃんと食事をする人間像”っていうのを制作側が気にかけているのかどうか、というところを視聴者の私は気にしています。
特にアニメに限ったことではないのですが、考えるきっかけはたぶんアニメだったのでこんなタイトルにしてます。同じようなことを考えさせるアニメはたくさんあります。そこに他意はありません。
そんな小話。
では、いただきます。
お米も食べずに完食とな?
近いところだと、『デキる猫は今日も憂鬱』の福澤さんの完食描写、もとい完食判定が気になりました。ちなみに「デキ猫」第1話ではお弁当と自宅飯、複数の食事描写が出てきます。ご飯とGoHandsがかかっているわけではない。
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第1話で登場する、会社から持ち帰った弁当を見てください。
米粒が2つ残っているのが、この位置からでも確認できます。
これを「完食」とする世界観(世界設定じゃない)が私はイヤというかもったいないというか、キャラクターへの愛情がブレる要因になりそうで心配。そして、そのブレを不必要に作っちゃってるんじゃないの制作部! という思いがあります。プロデュース力への疑いというか。
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原作からして米粒が残ってるんだからしょうがないじゃん、原作通りやっただけですという言い分もわかるんですけどね(GoHandsが原作通りやってるとな?)。
今日も美味しかったよと言う割には、お米粒が残っているじゃありませんか。
食べ方とキャラ付け
たしかに福澤さんは作中で(そして家の中で)ダメな人間として描かれていて、デキる猫・諭吉の引き立て役でもあるんですけど、あくまでも掃除も料理も向いてないタイプというだけで、人の優しさがわからないとか感謝をしないとかそういうソシオパス系(?)ではないので、フツーのところはフツーでいいと思うんです。現に、仕事はしっかりこなせる人ですし。
ダメな人であっても、悪い人じゃないわけです。
だから、食べ物をちゃんと食べないとかそっち方面のダメさ加減を演出する必要は別段ないわけです。
お弁当と対面したときの福澤さんの表情(『デキる猫は今日も憂鬱』第1話より)
こんなに食事を楽しみにしている人が米粒を残す、というイレギュラー感。これでは食べ物に感謝ができてないと思われても仕方がない。
え!! 食べ物に感謝を?
福澤さんはそうじゃないと信じたいんですけど、
こういう「食べ物への感謝が足りてない系の人がやりがちな行為(の描写)」が、その後のエピソードに何にも影響しなかったりしたら、「ナチュラルになんか行儀悪かったよな、あの人」って結果しか残らないんです。こういうのは、できるだけ回避しておけばいいのにと思うんです。
この先々で何かあっても、「でもお前は米粒をちゃんと食べきらない人間じゃん」という遺恨を残して、あらゆる説得力が失われる。お金はないのに米粒は残すんだ、ふーん、みたいな矛盾を抱えたキャラクターが爆誕する。そんな危惧があります。
私にとって「米粒ふたつを拾いにいかない」という行為は、このトリガーが発動するのに十分だったということです。弟子やったらパンパンやな。ご飯だけど。
箸休め:おかわりが前提ならお椀に多少のお米が残っててもいいじゃない問題
第1話のCパートにも美味しそうな磯辺つくね丼が出てきます。流石だよ諭吉~。
いや、「完食(赤オーラ)」じゃないんですよ。しかも渡し橋(審議)。もしかして福澤さん、ホントに駄目な人間なんじゃ?
このあと、福澤さんは諭吉におかわりを要求します。
これ、私はまったく理解できないんですけど、おかわりしてまたご飯をよそうんだし、1回目をキレイに食べきる理由がないみたいな、そういうのもあるらしい。どうせ汚れるし掃除しなくてもいいじゃん精神に近い気がして、気が気でない。
「ベイカー街」で元太が言ってたこと、思い出してほしい。
食後描写には「残飯」が不可欠なのか
どうして残飯を描いているのかと考えると、そこに料理があったことが伝わらない・空の容器と見分けがつかないという理由が推察できます。
もっと言うと、「キレイすぎる状態の器やお椀ではどんな料理を食べたのかが伝わらない」という問題が生じるのではないか。そんな考えに至りました。
そんなこと、文脈から判断できるし、盛り合わせのカットが1枚くらいあったはずだろうと、自分でも思います。かなり筋無理な解釈です。でも、前後の変化をつけるために”汚れ”を残すという手段で表現をしている──ありえなくはないかもしれない。
確かに、何かが残っている必要がある特殊なシチュエーションにおいて、「米粒ふたつ」っていうのは作画面や仕上げでも楽だし(※汁物の液っぽさや反射光、固形物の断面やディテールとの比較)、米粒以外に見間違いようもないちょうどいい食材であることは間違いがない。フランス人が観ていてもわかる。
とはいえ、やはり日本の主食であるところのお米──不可算名詞なのか知らないが──を扱っているがゆえに、少量でも食べ残しは目立つし、いかにも敵を増やしそうな方法論で、視聴者には余計な印象を与えかねない。さらにはキャラクターも不要なヘイトを集めかねない。
もっとやりようがあるだろうと思います。
食べ残しても許されそうな食材を考える
仮に何かを残すことが完食描写に必要なのであれば、「それくらいは残しても許されるもの」を残した方がいい。お米を残すと敵が多い。
それでなおかつ、作画コストがあまり大きくならない食材が好ましい。たぶんエビフライの尻尾はコストが軽くない。
ここからは独断的な基準を持ち出すので、読んでる人にとっては「いや、それもちゃんと食え、飲み込め」と言われかねない危険がありますが、私が思う「残してあっても完食判定に耐えうる」食材をここで発表します。
- プチトマトのヘタ
- レモン・蜜柑の外皮
- 梅干し・葡萄の種
- ソースや醤油
- 骨付きカルビの骨部位
- 丼の底が透ける程度の汁
──などがぱっと浮かぶところではありますが、ギリギリのラインではアップルパイの生地の破片も許容できます。天ぷらの盛り合わせで衣が残っているのは悲しい気持ちになります。
それでいえば第1話の福澤さんのお弁当には輪切りのレモンらしきものが窺えます。米粒の代わりにこの皮を残しておけば、面倒くさい人間に目をつけられないで済んだかもしれない。
ところで、このお弁当には食材以外のものは入っていなかったんだろうか。
レモンの横にバランっぽいものが映っていますが、たぶんこれはレタスか大葉でしょう。
もし、アルミカップやバランのような食材同士の領域を分けるアイテムを使っていたら、会社のゴミ箱にそれらを捨てるというアクションを福澤さんはしていたことになります。そうじゃなかったら自宅で諭吉が弁当を開けたときにバランが残っていない絵との繋がりがおかしいことになりますからね。
でも、お弁当を洗っていたなら米粒が残っているのも変な話です。洗い物もまともにできない人間がまたもや爆誕します。
というか、レモンの皮はどこにいったんだろう。会社で捨てたんでしょうか。もしかして、福澤さんレモンは皮ごとイケる派の人なのかな、そうするとちょっとだけ好感度が回復しますね。なんか弁当の形状が同一じゃない気もするが、いまは気にしない。
バランだけ捨てた、洗ったけど全然洗えてない、お好きなところを選んでください。私は、福澤さんはお弁当は食べる専門である、という線を採用します。
おしまいに:食材を残さなくても完食は描けるはず
まとまらないけど、まとめ。
食材による残飯にこだわらなくても、ソースが付着したバランとか、使用済みっぽい爪楊枝が残っているだけでも十分「完食」を描けるはずなんですよ。皮でもヘタでも何だって代用が効くでしょう。
そういうところをパスして、わざわざ米粒を残して完食とする、というのは人間の描き方に要らぬノイズを付け加えかねないので、やめた方がいい。と、おんなじ話をしているな。
ちょっと面白いから再掲(『デキる猫は今日も憂鬱』第1話より)
こういった食べ残しが特にエピソード化されないまま、それが彼女の日常の仕草であるといわんばかりに描かれると少し悲しいものがあります。
そんな感じで〈アニメ『デキる猫は今日も憂鬱』の完食描写について〉というお話でした。
おしまい。お米食べろ!
西中島南方から10分、GoHandsから5分のところにある「太郎坊 寿し」の海鮮丼ランチです。 お近くにお立ち寄りの際にどうぞ。 pic.twitter.com/OEY4O6CD0J
— 折田(兄).exe (@orita_no_ani) March 29, 2021
ごちそうさまでした。
『わたしの幸せな結婚』の食事描写
行儀の良い方々の食事はどんなものだろう、という観点で『わたしの幸せな結婚』の食事もちょっと注目しています。なんてったって名家ですからね。
『私のしあわせな結婚』第2話では、お膳に並べたれた食器を、俯瞰したショットではなくやや平たい角度から映していました。カメラを寄せずに、椀のなかを深く映さない選択もありなはず。
律儀に食べ残しの確認はできないもの、優先したいのは食べ残しによる(不必要に)悪い印象を避けることであり、その点では成功しています。特に何事にも発展しなかった食事であることが、つつがなく食事が終了=完食を意味しているので、「完食」は描けていると思います。これだけ食べてくれたら作り手は満足なんじゃないでしょうか。
上手な省略とも言えますね。流石です、坊っちゃん。
『わたしの幸せな結婚』食事の拒否とリカバリー
余談ですが、第2話Aパートでは美世が作った朝食を「毒でも盛ったか?」と言い放ち、一口も口にせず坊っちゃんは部屋をあとにしました。ひどいですよね。まあ、ここでの毒はたぶん”過剰な糖質”のことなので、あの反応も致し方ないと言えなくもない、かもしれない。
人が作った料理に対してたいへん無礼な行為ですが、ここの完全な食べ残しは坊っちゃんサゲ、坊っちゃんって難しい人間だなという演出になっているからいいんです。不要な悪い印象とかノイズとかではなくて、そう思ってほしいから入っている描写。これがエピソード化というやつです。
この食事を通した二人の不和ですが、晩のうちに詫びる(具体的に何について謝っているのかを述べた点がグッド!)、また朝食を作ってくれと頼む、翌日の朝食はちゃんと二人一緒に摂る、というエピソードを経て、初日の食事放棄の件はすっかり忘れたとはいかないまでも、ほとんど許されたものになります。
この先、「でもお前、初日に毒がどうのこうの言ってたじゃん」とは言われにくくなるはずです。もしそこを突っ込むやつがいたら「知るかボケ」でいいと思います。
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