観てきました、『リズと青い鳥』。面白かったです、凄く。
全体を通してヒジョーに静かな作品で、壮大なBGMによる大仰な仕掛けもなければ、アジテーション芸もない。
派手さや華々しさとは遠いところにいるけれど、そのぶん超新星みたいな静かで強いまぶしさが画面に溢れている。青春の光なのか少女の光なのか、もしくはその両方なのか、今はまだわかんないけど。光源そのものがフレームインしないのも観てて気持ちいい。
みぞれがひたすら可愛かったです。みぞれがひたすら可愛かった……。
ここまで眼球をナメたくなるヒロインもなかなかいないんじゃないかってくらい、眼球の描き方に惹かれてしまいまして。あの眼球の(←瞳でいいだろ)瑞々しさはなんだろうって考えたとき、まず思い及ぶのが、上下にまかれたハイライト。それから、”やりすぎ”のライン(アニメ的、とされるライン)をギリギリで踏みとどまるうるうる揺らぎ、ですよね。
(ハイライトの描き方/動かし方含む)近年の眼球まわりの描き込みは目を見張るものがあります。いろんなアニメで凝った見せ方を試みたりしていて、まさに群雄割拠な眼球世界。
もうひとつ美味しさの秘訣っぽいのが、眼球のトップが膨れ気味になっていること。親切に横から顔を映すショットがたくさんありました。
ばっちりの素材がトレーラー内にはなかったけど、まあいいや。ちょっと丸ーく前に出てるなあ、と私は感じるんですがどうですか。この画角からでも左眼球みえちゃうんだ。
なんとなく、コップいっぱいに表面張力のはたらいた瞬間を想起しませんか?
ほら、この球体っぷり! その上をすべる水の膜。
思わず口で掬いにいってしまいたくなる衝動にかられる。
眼球prprアニメ爆誕。
目の話おしまい。
言葉にしない美学とジレンマ
鑑賞後、文字として感想を残そうと模索した結果、こんなことを書きました。
映画としての「言葉にしない」美学と、対人関係における「言葉にしない」ジレンマの間を絶妙なバランスで行き来していた作品 だと思います──。
お、おう……。しかし、2周回って、いいこと言ってる気がしてきたぞ。
美学とか、ジレンマとか、つまりどういうことか。
映画的な間合い
アニメを観ていると、「少しは画で語れ」と思うことがあります。
「映画」としての出発は登場人物が台詞を口にしない「サイレント映画(無声映画)」から始まっているのだから、昨今の、状況や事象の説明を台詞でべらべら喋らせるような真似をするのは恥ずべき脚本家のすることだと。ちょっとばかし言葉に甘えすぎてるんじゃないか?
映画には言葉にするよりも伝わる魅せ方がある。と私は信じている。
本作は、会話のなかに──言葉と言葉のやりとりのなかに──深い「間」があります。
会話は度々キャッチボールに例えられるけれど、本作におけるそれはお互いの距離が離れているわけではない。そういう種類の「間」ではなく、キャッチしてから、グラブのなかでボールを握り直す時間、そのインターバル。
そこに画で語る魅力と巧みさがあります。
気持ちの間合い
一方、希美とみぞれの両者間にあるのは、「言葉にしなくても伝わる。言葉にする必要はない」という油断や妥協、それらから転じた決断への逃避/認識の違い。
私達は(これからも)大丈夫──。
そんな先延ばし(いや、考えもしなかったのだろう)にしてきたあれこれが、無数に残っていると思っていた砂時計の珪砂のように、今まさに下に落ちる瞬間を迎えました。扉が開かれる瞬間がやってくるのです。
卒業。そして、進路の選択。
希美と一緒にいるためだけに鳴っているみぞれの”音楽”は、コンクールの自由曲であり同名の童話でもある『リズと青い鳥』や、学校、己の支配欲などいくつかの”トリカゴ”を通して少しだけ変化します。ナゾにあらすじめいたものを書いてしまった。
かわいいは重要!
絶妙な危うさ
みぞれと希美の二人に対して「お互いへの気持ちをもっと言葉にしてよ!」と思いながら、映画体験者として、この上ない言葉数の少なさに酔いしれてもいました。そういうふたつの相容れない感情が──互いに素(disjoint)が──もどかしくせめぎ合う、そんな90分でした。
それだけに、「よろi……剣崎(ry」ってテキストが理解できなくて、いまだに腑に落ちない。なんかあそこだけやけに嘘っぽくて、バタ臭いノリとして頭に残ったりもします。
以下、未鑑賞の方の、鑑賞時の楽しみと驚きを損なわせるであろう文章が多少出ます。ありていにいえばネタがバレます。
しかしこの映画の「ネタ」はどこにあるのか、と自問してもあまり答えは出ない。そういう映画じゃない気もします。結局はその人それぞれの「心のネタバレ」があるのでなんとも言えないが、いまここで情報を入れてしまうことで自分が発見するはずだった”気づき”への嬉しさが半減する可能性については一応断わっておきたい。めんどくさいやつだな~。
感動のカンニングってやつですね。
気合の入ったオープニング
部室のふたりをバックに本作のタイトルである『リズと青い鳥』という文字がゆらーっと浮かんでくるまでの数分でもうせめぎ合いが始まっています。ガルパンの劇場版みたいに、あそこまで無料で公開とか出来ないのだろうか? 「京アニの絵柄で観たかった……」とか言ってる人も黙らせられるんじゃないかないかと思うんですが。
そんな風格が漂うオープニング。正確には童話パートを挟んでのオープニングと言うべきか。
音良し画良し空気良し
みぞれが校舎前の階段で佇む。みぞれは喋らないし、通学してくる他の生徒も喋らない。
そこに、食器かなにかをカチャカチャ合わせたような、
NINやトクマルシューゴを思わせる無機質なBGMが流れはじめ、作品全体のシリアスさを予感させる。
なんて思っていると希美が登校&フレームイン。
すると次に流れるのは軽快なリズムの劇伴である。
ははあ、無機質な音楽は作品全体にかかっていたのではなく、みぞれにかかっていたのだな。つまりこれは二人の反するキャラクター像を、色味の違う音で表情づけしていたんだな。なるほどなるほど。るーるーるー。
対照的な二人・対照的な音がLとRから見事な融合を果たし、無二のハーモニーが生まれる。
音良し
本作の音楽は牛尾憲輔さんが担当しています。
LAMAでお名前知りましたけど、アニメ的には『ピンポン THE ANIMATION』の音楽で大活躍された方、という認識が一番わかりやすいのかな? 『聲の形』でも音楽担当されてました。
歩きかた(足の着地)に合わせた音使いにも二人のキャラクターの違いが出ていたりと、二人の関係性を物語る重要な役割を担い、心情が浮かび上がる場面では何度も音楽の力が効いてきます。
特に好きなのは、冒頭の”無機質とのハーモニー”と、フルートの反射光がレーザーサイトみたいになってみぞれに届いたあのシーン。あそこの、みぞれがちょっと俯いたあとに前を向くと希美がすでに居なくなってる瞬間の音の変わり様ったらタマんないですね。世界はみぞれをどこまで追い詰めたら気が済むんですか、って憤りながら心のなかでウヒヒしてました。ウヒヒ。
フィルムスコアリングを感じられました。ほんとに素晴らしい仕事である。
童話『リズと青い鳥』のなかで流れるBGMは楽曲『リズと青い鳥』のアレンジだったり、剣崎リリカのテーマも、二度三度繰り返しているうちは息抜きゾーンとして機能させておいて、「オーディション落ちちゃいました(泣)」の瞬間に音の鳴らし方のパターン変えてきたり。アコギのボディを手のひらで打つ、みたいな。あんまりイメージ残ってないです。
あとはふたりが向き合ってからの不気味な低音への移動ね。あれはほんとに何だったんだろう。なんの予感/暗示ですか!?
じゃあ、音の話はこのへんにして。
画のテンポがいい(危険なワード)
もう少し冒頭の話。
二人して部室に向かうシーンは、端折るところをさくっと端折ることで簡素に整理されていて、アバンの数分だけでもう名作の匂いがプンプンである。
実際にあったであろう、みぞれに声をかける希美の「よっ、おはよう みぞれ」とか、部室の鍵を借りに入った職員室での「失礼しまーす」とか、こういう演技。これらを全部すっとばしてる。台詞が……、言葉がガシガシ削られてるよ。
上のgifは登校してきた希美がみぞれを見つけた、そのあとのカット。カメラは校舎側に移動して、階段を登る二人を迎えるようにフレームにおさめる。右下から二人が現れた瞬間にハッとさせられる、見事な繋ぎ方。
……。
これ、めっちゃよくない? わたし好きでさー。
「ああ、帰ったら『花とアリス』を観よう……」と思いながら鑑賞してました。
少女が並んで歩いてる、くらいしか共通項もないんだけど(『花とアリス』より)
この時点でけっこうなメーターが上がっている様子の私。
音良し画よし空気良し。これは面白いものが見れそうじゃ。そう思いました。
じゃあ、あとはポイントで好きになったところとか。画で語ってたポイントとか。
もう少し続く。
レンズで測る、ココロの距離感
といっても、レンズのこと実はよく知らないんですが。ははは。
「被写界深度の浅いカメラ(レンズ)」というのは、京アニ作品において、もはや代名詞的なものになっているはなんとなく周知の事実と言いますか(早速歯ぎれが悪い
たぶん、『響け! ユーフォニアム』の1期が放送されたころの時期と重なると思います。「浅すぎるよ!」みたいな話が拡がったのって。いや、重要なのは被写界深度の浅さと併用させた「ピン送り」のほうだったか。
レンズの特性
被写界深度が浅いということは、奥行きのある画の場合、ピントを合わせた部分よりも手前か奥の被写体にピンぼけが発生してしまうわけですが……。
キャラクターが横並びだろうが(肩越し頭越しのリバースショットだろうが)カメラとの距離が違えばどちらかがボケたり。あたりまえか。「ボケる」とは言ってますが、撮影セクションが「ボカシている」点に留意してください。
ピンぼけをつくる狙いとしては、
- 副要素をはっきり見せない(見せたいものに注視させる)
- ピン送りのための土台づくり
主目的は画面の整理。周りをボカシて引き算式に画面の優先要素を構成していきます。2は……おしゃれ感がほしいからだ!
これを発展させて(POVショットと併用して)、○○しか目に入っていない的な画作りや、画面全体をボカシ、涙ぐむキャラクターの滲んだ視界を表現したり。
で、そういう奥行きにボケが生じやすいレンズを使って撮影している状態でふたつの被写体にピントが合うのは、カメラとの距離が同等の位置にいる場合。被写界深度が浅ければ浅いほど、この”ゾーン”は狭く限られた範囲になっていきます。
僅かなゾーンに複数の被写体が一緒に並べたとき、心が対等に向かい合えたとき、カメラはどちらにもピントを合わせるんじゃないかな……なんてのは私の勝手な思い付きです。カメラは作り手の忠実なるしもべであり、物語の頂点に御座します神でもある。全部お見通しなのだ。
これらのツーショットの収まりの良さよ。
ま、全部同じレンズで撮ってるわけじゃないんですけど。(おい
さて。
こっから書くことは途中で思い至ったことなんで、間違ってる可能性大の世迷い言に近いんです。でもせっかくなんで書いときます。
たぐりよせる距離
今回のテーマのひとつに「距離感(距離間)」というのがあります。
音楽との距離、後輩との距離、愛する人との距離(照れ)
なかでも主題は、みぞれと希美との距離。みぞれにとっての希美とは……希美にとってのみぞれとは……。
すれ違い、追いかけ、絡まって、結びに落ち着くまで、ふたりの最適な距離はどこなのか、非常にもどかしい。
身体的な距離、精神的な距離。「近くて遠い」をマジでやってます。「近いのに、遠い」か。
その”近くない”ふたりの距離感を表現する手法として、(モードに入るのはしっくりこないソロパート合わせが終わってから)本作がやってのけたのは、
- ふたりのツーショットを極力減らす
- ツーショットで撮る場合は物理的に距離を空け、カメラも引き(フルショット/ニーショットくらい)で撮る
- 寄って撮る場合は顔をフレーム外に逃がす
- 奥に逃がす(どちらかをボカす)のは可
という制約。数多すぎて、もはや制約になってないぞ。
※繰り返しますが、あくまで思い付きですから。
↑確認してきました。が、「まあ言われてみれば……そうかも?」くらいのもやっとした感触でした。確信には至らず。ツーショットは少なかった気がするけど、比較対象もないし。相手を見てるようで見てない、って演出はこのあたりから匂ってきた気がするんだが。
接近
まずこの考えが浮かんだのが、家庭科室での「大好きのHUG」のところでして。生物室だって? そんなの私の学校にはなかったぞ?
あそこのカタルシスって、ふたりが一旦の和解を獲得できた安堵感であり、「あらーいいですわね」的な最接近してくれたビジュアルそのものでもあるんだけど(や、もしかすると接触そのものが初めて? なにそれ怖い)(←後述)、
なんというか「久しぶりに(ふたりが)こんなサイズのショットで同じフレームに入ったな」って感触があったんですよ。
希美視点のみぞれだったり、みぞれ視点の希美だったりはいっぱいあるんですよ。「(頑張ろう!)」のリップシンクのカットもそう。でも、二人の会話のシーンになると、頑なにどっちかの顔のアップやバストアップで繋いでいったりして、ふたりを一緒にフレームに入れるのを意地でも避けてるような。そんな気がした。※後付けです。
このへんとか、会話してるのになんかイビツじゃないですか。
京アニお得意の対面方向の画面の端に追いやるキャラクター配置も多かったですね。
さらに、ちゃんと向き合ってなかったり距離があったり。
じゃあ、この”おあずけ”はどのくらい前から続いてたんだろうか、と記憶をたどると……。
最初の(!)部室シーンで「ソロのとこ、合わせてみよっか」って希美が言うところ。そのあと みぞれが希美に顔を近づけていくところ、までいってしまうかもしれない。
【追記】↑これも、確認したつもりがまた記憶から消えました。薄ボケもあるから完全には追えないんですよー(言い訳 【追記終】
接触は三回
ただ、上の方で赤字にした「接触はここが初めてなのか」問題はちゃんと解答が出せました。
今回、みぞれと希美の身体が接触するのは全部で3回(本を渡したりなどは物体を介しているのでノーカンにしてます)
大好きのHUGが初めて作中で登場する少しあと、希美がみぞれの頭をポンとするのが1回目。図書委員に返却の注意を受けているみぞれに希美がそっと後ろから腰に手をやるのが2回目。3回目が生物室のあれですが、ここだけはみぞれ発進の接触ですね。
けっこう少ないな、と思いますが、どうでしょう。TVシリーズにおける、一年コンビの唇プルンとか、髪結んでとか、応援するねとか、ああいう女の子同士のフィジカルセッションは限りなく横に追いやられている。心のズレがそのまま身体的な接触を避けていたのでしょう。
なので、ずいぶん焦らされたものがあそこで解放されたんじゃないかと。そんな気がしてます。
総括。
ふたりの距離は切り取るカメラによって作為的に遠ざけられていたのかもしれない……という私の思い付きは、「近からず遠からず」ですかね(うまくねえぞ
互いに素になぞらえた二人の関係
ふたりの関係性を表現していたワードとして「互いに素」という数学用語が作中に出てきました。冒頭の「disjoint」も同義。正直、物語を読み解くにはピントがどうこうよりも、こっちのがよりヒントになります。
互いに素については、互いに素や素集合などのwikiを参照しましょう。
2つの集合が交わりを持たない (disjoint) あるいは互いに素(たがいにそ、英語: mutually disjoint)であるとは、それらが共通の元を持たぬことをいう。一般に、与えられた集合族が互いに素(英語: pairwise disjoint)、あるいは素集合系(そしゅうごうけい、英語: disjoint sets)であるとは、その集合族に含まれるどの2つの集合をえらんでも、それらの選び方に依らずそれらが常に共通部分を持たないことをいう。例えば、{1, 2, 3} と {4, 5, 6} は互いに素である。
共通項のないふたつの関係性を希美とみぞれになぞらえているのです。
交わりを持たない、というのがまた視聴後のタイミングで色々と考えさせられるというか、辛い気持ちにさせますな。
生物室のHUGのときに青と赤が混ざる水彩タッチのイメージが出てきまして。オイラー図からベン図に変化した感じの。赤色が青色の方に浸食していくあれ。
こういうの。
生物室での立ち位置と同じなんで赤(みぞれ)が青(希美)を浸食していった図式。ふたりの瞳のカラーとも合致しますし。
あえての情報遮蔽、なのか?
冒頭の「disjoint」から二人のズレた関係性は提示/ほのめかしがされていたわけですが、「互いに素」という言葉を用いてより具体的に舞台に出てくるシーンが、数学の授業でした。
2回目鑑賞時、「どうして1回目であんまり『互いに素』の言及ポイントが記憶に留まらなかったのかな?」と想いながらこの場面を迎えると、このときの画面が、数秒前のカットで教師から手渡された「白紙の進路希望調査票をみぞれ目線で眺めているカット」だったんですよ。
こんなに活字の飛び交う画面を見せられたら、活字中毒じゃなくてもそっちに集中しちゃって、耳からの情報は追いつかないなってすぐに納得。自分に甘い。
みぞれと同じようにうわの空になっちゃいました。観客への情報制御がなされた感があって、視聴をコントロールされてんなーと膝を打った次第です。
演出あれこれ
私、Twitterの書き込みで「冒頭の部室の鍵を開ける役目は希美だった」って書いちゃってて。だから希美=リズ(鍵を持つ人間)で進んでいってたんだと思ってましたが、2回目にそこ見たら鍵持ってるのはみぞれだし、部室を開けるのもみぞれで、希美が先に入るから、この時点ではみぞれ=リズ、希美=青い鳥って認識で進行していきますって提示されていたんですね。もう、大失態。
ひとりぼっち、というキーワードが抜けていて、飼育関係主従関係のようなものからリズが希美でみぞれが青い鳥の視点で観ていた私は終盤で「?」マークが浮かんでいたり。
あとは演出で光ってたなあと思う箇所いくつか。
いくつもの閉鎖的な空間
本作には「学校=鳥籠」という構造がありました。だからずっと舞台は校内だったのです。プールに出かけたイベントもパートメンバーで行ったファミレスも描かれない。ただ校内での話だけが写し出され続けます。
この屋上への扉のカットがなんとも象徴的でした。
学校をトリカゴとなぞらえた場合、屋上への経路が固く閉ざされている状態なわけで、いわば檻と同じようなものなんですよ。閉鎖的な空間であることを示す少々残酷なカット。
フグとみぞれの関係性も、水槽=閉じ込められた空間として解釈すると、短絡的なきっかけから芽生える支配欲や愛情など、みぞれの複雑な一面がうっすら浮かび上がってくる。希美の悪女〈ヒール〉っぷりが際立ってて霞みがちだけど、みぞれもなかなかの悪女である。
しかしフグにとっての幸せは水槽の外にはあるだろうか。
陰で咲く花もあれば淡水でしか生きられない生物もいます。観察者が思う「相手の幸せ」は必ず正しいのだろうか? このあたりはあすか先輩とかおり先輩の関係性のときにも考えてたことです。
街の景色に黄昏れる希美。木柵が鳥カゴのかたちに。
『ゴッドファーザー3』でこれに非常に近い演出があったなあなんて思い出したりしました。アル・パチーノが懺悔するシーンで。
この周りの植物(と宮殿の柱)が、懺悔室の壁になっているって演出なんです。
ハイ次。
家庭科室でみぞれの演奏力について希美が言及するときのカットにDNAの模型が映ってました。「才能」との合わせだったと思います。
こんなの。
ハイ次。
フルートとオーボエの掛け合いではない。オーボエとフルートの掛け合いなのだ!
心がスカッとしますね。
ハイ次。
数字いろいろ
本作では「互いに素」にからめてたくさんの数字が絡められ散りばめられていました。ロッカーの番号、童話内のさくらんぼ、階を示す床のマーク、試験管立てに振られた数字、試験管のラベル、パートメンバーの構成数、ヘアピン、フグメダカ……途中から全部が何かしらの意味があるように見えて仕方がなかったです。
そのほとんどが素数や素数の並びであり、つまりは互いに素の構成要素として提示されているんだなというのがなんとなく掴めてきます。
たとえば、青い鳥にリズがつけてあげるさくらんぼのヘアピン、あれが「3」でした。しかしある一点からヘアピンのさくらんぼは「5」になります。ちょうど、リズと青い鳥とみぞれと希美(とワニ)の関係性が逆転する場面でのことでした。
一度、4階の床に「4」と示されていたときは「4? なぜ?」と思ったのですが、そのすぐ後で低音パートの面々が登場しました。ここは二人の空間ではない、互いに素の関係性の空間ではない、という演出だったのだと思います。
童話『リズと青い鳥』
童話パート内で好きだったのは
- ランプを消したあとの月明かりが差す寝室
- スカートのなかにあった空気の逃し方
- 独りでの食事と二人での食事の表現の違い
の3つ。特に印象に残ってる部分。
ランプを持って二階の寝室に上がるリズが画面左っ側でランプをフッと吹き消すと、画面右側の窓から月明かりが差して、部屋のカラーが暖色から寒色にさっと変わる。夜が来る感じ。
風が吹くシチュエーションも多く、スカートのはためきも童話のなかでは結構出てきていたんですが、洗濯ものを干すシーンよりも(あそこの少女の重力が軽いのもクール)好きなのが、雨が上がった朝に少女を発見するカット。
少女を見つけて側に座り込むリズのスカートに、こんもり空気が入ってすぐにゆっくりと逃げていく。あそこの動きが気持ちいいですね。ちょうどいいスカートの重さ。
明暗をつけた食事
食料を与えるのは相手を信用しているから、相手への慈悲と愛である、というのはフード理論のひとつである。素手でパンを与えるリズと動物の間には信頼関係があるのです。
少女と出会う前のリズの生活は家とパン屋さんの往復のようでした。「またあした」の台詞やスリッパを起き上がりの向きに揃えてベッドに入るような習慣から、日々の生活について基本的には前向きな気持ちを持っていながらも、お店の窓の外を眺め、繋がり合う家族像に羨望の眼差しを向けていたり、心の深いところでは物足りなさを感じているようでもありました。
アールト(店の主人)からもらったパンを自宅で食べるシーンでは、神への祈りを済ませたあとパンを口に運ぶ瞬間にカットは切り替わり、リズの食事の様子が壁に写るシルエットで表現されます。
食事を摂るリズの影はいかにも孤立していて淋しげです。
その後、少女と出逢い、リズは二人で食事を摂るようになり、机を囲んでの向き合うようなかたちであったり、広い丘に腰掛けて並んでサンドイッチを食べたり。これらはしっかりと画面内に優しく映っています。
食事をするほど仲がいい。その好例じゃないでしょうか。
白鳥や……
フィルム音だけの静寂な長回し。シビレる。若山牧水の「あの歌」がモチーフなのかなと。
あの歌とは「白鳥はかなしからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ」のことですが、簡単に訳すと「白鳥(カモメ)は悲しくないのだろうか。いや、悲しいだろう。(反語)空の青にも、海の青にも染まることなく、ただ一人空に漂っている」と、こんな感じでしょう。
独り飛び立つ白鳥(カモメ)の寂しさを歌った歌です。さながら青い鳥へのはなむけのよう。
童話『リズと-』のなかでも「空が映った湖みたい、綺麗」という台詞があったり、青い羽を拾ったあとに空を見上げて太陽光が降り注いでいたり、密かに仕込んできてたんでしょうか?
この歌をモチーフに二羽の鳥を飛ばし、「二人だから寂しくはない」を表現していた、と私は三回目にして思い至りました。
みぞれの横髪
みぞれの髪をしごく動作が目立ちました。数えたら10回。
右手だったり左手だったり。右の髪だったり左の髪だったりしてました。
髪をしごくパターンで、単純に「肯定と否定」くらいのことかと考えたもののそれもしっくりこなくて。あの仕草が出たタイミングでみぞれが飲み込んだ言葉を想像してはみるんですけどね。「(知らない)」とか「(そうは思いません)」とか。
「(……うっせえなぁ)」がうまくハマったりハマらなかったり。
しかしどの想定ケースもしっくりこない。なので、あれは完全なランダム性に基づき左右の選択がなされており、二重振り子のように予測できるような法則性はない。これこそが鎧塚みぞれという人間の複雑さを表現しているのだ──こういう理解に落ち着きました。
ハイ次。
希美の足癖
希美はというと足をクロスにしたりそわつかせる仕草が散見してまして、あれは心理的な防御の現れなんだと思います。
ハイ次。
「音大進もうかなって思ってるんです」ってカマかけたときの新山先生、ちょっと残酷すぎやしませんか。大人かよ。あそこは引きの画で撮ることによって、希美を突き放すかたちをとり、交渉の決裂感を出してきたカット撮りです。
ハイ次。
足が見せる人間模様
脚は言葉を話さないし、笑わない、怒らない、驚かない、戸惑わない。と思ってた時期がなんとやら。
こと山田監督の作品では脚は雄弁です。脚は役者と言ってもいい。
みぞれは希美の後ろをずっと歩いてきました。中学の回想、部室に向かう冒頭のシーン。後ろをついていくばかりのみぞれが、ある場面、ある一点において、希美の先を歩く。みぞれの足が、境界線を先に跨ぐ。
これは、学校をあとにする=卒業後の進路、を意味していて、希美の後ろじゃなく、自分ひとりで道を歩んでいくみぞれの決心が窺えます。親友を未来へ押し出す希美の優しさも。さらには学校=トリカゴなので、そこから飛び出したとも受け取れます。
”青い鳥”はトリカゴを出ましたが、みぞれも希美も横に並んでいます。希美の望んだハッピーエンドに近しい結末のようにも思えます。
しかし、物語はまだまだ途中で、彼女たちの結末は遠く、フィルムは一瞬を切り取ったに過ぎない。それでも、「dis joint」と打ち消しの言葉が出たことで、”いま”の彼女たちは「互いに素」の関係性から外れたのだ。それはいいこととして受け止めればいいと私は思うのです。
これは完全に与太話ですけど、仮にふたりが17歳と18歳だったとしたら──。
17と18は互いに素、なんですよね。それが18と18になったとき互いに素ではなくなる。つまり、ただ単純に時間が一切を解決する、というどこにでもありそうな人生訓に立ち返るのでは(なんだこの落語みたいなオチ
おしまいに
こんなふうに数日感、あれこれ考えが巡り続ける映画も珍しいなと。あれはどんな意味があったんだろう。あそこの数字はなんで素数だけで構成されてたんだろう。思いは尽きない、いまのところ。
楽しい映画体験になると思います。ぜひどこかで目の当たりにしてほしいです。
おしまい。
コメント,ご意見など (中傷発言はNO)
興味深くて拝見させていただきました。
鋭い考察に驚かされたり、納得したり、ここは少し私とは違う解釈だなと思ったり。
しかし、最後の「与太話」は目から鱗といいますか、本当にそうだったらいいなとホッコリしました。
ふぁぶさん、こんにちは。
がーっと思いついたことばかり書いて、読みやすいような上手な構成まで整理できていませんが、
何かを感じ取っていただけたのなら嬉しい限りです。
たとえば「誕生日」なんかの話題に触れる場面があったなら与太話も面白く活きてきそうですが、
やはり与太の範疇を飛び出しませんね。