アニメ『BLUE REFLECTION RAY/澪』がなかなか面白かったですね。近年の流行りの光がガビガビしてなくて、良かった。
ちょっとだけ、2010年代の古い感触というか懐かしい肌触りもありましたけど、それは別に貶しているわけではなくて、私にとっての2010年(前半)は、ちょうどアニメを観るのが楽しくてしょうがない時代だったのです。そんな懐かしい時代に放送されていてもおかしくない質感、個人的な黄金期の記憶に寄り添うような作品でした。はい、褒めの感想終了。
『BLUE REFLECTION RAY/澪』第10話のナイスなやりとり
なかでも良かったなあと思ったシーン(カット)がありまして。それが第10話のラスト付近のカット。
人付き合いが苦手だった羽成瑠夏(通称:るかちゃん)が、るかちゃんの母親と通信アプリ(※LINEとは書けない)で近況の報告をやり取りするカットなんですけど、とにかく「通信アプリの描写」「スマートフォンの画面の描写」っていうのは鬼門というか、たいへん難しいのです。アニメ・実写問わず。映像界の、今世紀の課題といっても過言ではないです。
要は、普通に撮ってもつまんない。でもつまらないものを撮りたいわけでもないので、みなさん日夜工夫をしているのです。
で、件のシーンもといカット。何がいいのかは私もわかってません。もしかしたらこのカットに胸を打たれた人間は、実はとても少ないのかも。
ほんとうに、「空気感」という便利な言葉でひとまず場を収めたくなります。観ればわかる、感じ取れる、とは思うんですが。いや、第10話までのいきさつや過程がけっこう重要なところでもあるな。
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ひとまず画面の分析を。
FIXの画面と空に浮かぶ文面のやりとり
広い校庭に立つるかちゃんを横のアングルからFIX(カメラが定点・固定)がベース。そこに、夕空がぽっかりと空間が開けています。特に左上が空いてます、そこに通信アプリのやりとりが透過率80%くらいで重ねられています。
文字は実際に浮かんでるのではなく、ベースのカメラアングルに被さっています。技術の言葉で言えば、「(スーパー)インポーズ」とか「オーバーラップ」とか「フェードイン」とか言いますね。
AにBがかぶさってきて完全にBに切り替わるのが「オーバーラップ」なので、この場合はあまり適していないかも。ここではインポーズと限定的に定義しましょう。
決して特殊な画面づくりではないですが、ブルリフ第10話のこのカットは収まりが綺麗ですね。通信アプリの描写にありがちな「色のついた吹き出し枠」を取っ払い、文字だけ抜き取っているのがいいのかも。
見上げる芝居が素敵
さて、このるかちゃんと母親のやりとりの内容もさることながら、返答の文面を考えるるかちゃんの芝居がすごく良い。
なにか考えるときというのは、一度端末からは目をそらす、とりわけ上を見ることが多い。その間は流れも止まる。リアルな間、ナチュラルな時間。この自然なアクションに確かな良さがある。しかも見ている方向にはインサートされた文面が浮かんでいる。
そして、一度会話は落ち着いたような気配があり、ポケットに端末をしまうとまた返信がくる。暮らしのなかで非常によくある光景。
少し間をおいて、浮かび上がる母からの言葉──「よかった」。
文面は確認するけど、返事は返さない。綺麗な親子の関係が見えるいい演出でした。良い!
うーむ、やっぱり観てもらわないと伝わらないか。
アマゾンプライムでもdアニメストアでも、各位視聴してください。
はい、褒め終了。
『BLUE REFLECTION RAY/澪』
第10話「墓を掘る美しい娘たち」
脚本:水上 清資 絵コンテ:宮浦 栗生 演出:熊野 千尋
インポーズはスプリット(画面分割)からのイメージなのか
ほんとうに褒めの時間は終わりまして、とある気付きに話は変わります。
インポーズやフェードインは、普通では被りようのないものを被れない場所に被せるのが面白いのです。とすると、演出面の本質としては「2カメのスプリット(画面分割)のスプリット感を薄くしたもの」ではないか、という発想を得ました。
あまり上手に言葉にできていないからイラストを描いてみましょう。
スプリット(画面分割)からインポーズ構図への変更
さきほどのブルリフ第10話を画面分割で演出するとしたなら下のようになります。あくまで一例。
画面分割は、右と左あるいは上と下で分割した2枚は同時進行しているのがオーソドックなパターンですね。「このすば」の同時詠唱なんかが好例です。
他にも、シリーズ後半でのまとめて変身バンクとか。
分割してるけど、時間帯が違うパターンももちろんあります。
まあ、それはいまはどーでもよいのだ。
「ブルリフ」に話を戻して──
この画面分割から分割線を消してスプリット感を薄めていきます……
さらに要らない要素を抜いていく……
こんな感じ。最初はスプリットが元だったとは思わない!(まあ、実際に元ではないので)
インポーズは2カメから生まれているのだ、という意識を持ちたいですね。
2カメとレイヤード
重ねる素材のことをレイヤーと言います。イラストソフトでも「レイヤー」という言葉は頻出しますな。「階層」という意味が元だった気がします。
2枚の絵を重ねるところから発展させて、特に好きなのが同一人物が重なるパターン。
たとえば『はじめてのギャル』のOP。すでに懐かしさがあります。
八女さんのレイヤード。透過処理がないので、前にいる八女さんの真後ろは見えません。
これは顔にアップしている1カメと、全体をとらえたFFのカメラサイズ(FF=フルフィギュア)の2カメが存在している、と理解します。
カメラに向かって手前にいるのが、いつものイケイケな八女さん。奥にいるのが八女さんの乙女な内面を顕在化させた姿。一糸まとわぬ状態なのはその現れです。デミ・ムーアの『素顔のままで』を思い出したりしますね。ただただ古い。
この2枚(精神的な両面)を同時に画面内に存在させている。面白い絵だなと思います。
ところで、この『魔法科高校の優等生』のOPの1カットを見てもらいたい。はたして、どう思うだろうか。
テイストは似ているけれど、前と後ろでポーズが大きく違います。つまり同じ瞬間をカメラが収めたもの、同一のレイヤーの合わせではない。はじギャルのほうも完全にシンクロはしていないけれど。
2枚を重ねてるから奥行きが出ているし、動きも少ないのに退屈さはない。ちなみに、この”素材”はオープニングの後半でもう一度登場します。そこもまたいい。同じ絵が出てくる『魔法科高校の優等生』OPはそれだけで一見の価値がある、と思った次第。なによりこのOPは光の使い方が好きでした。
贅沢なアニメは疲れちゃうかも
最近のアニメのOPやEDは”同じもの”を使うことが減ってきているように感じていて、もっと「使いまわし(コピペ)」や繰り返しのアクションを活用してもいいように思うのですが、そういうのは迎合されない時代なのかもしれない。よく知らない。いわく、キャメラもキャラクターも動いていれば称賛される、という話らしい。
動かなければアニメにあらず、といった風潮でしょうか。
止め絵が鼻で笑われないときをただ、しぶとく待つのみである。ときただジョークでした。
要するに、動いているものを見せたいがために「動かしている」現実があり、「動かさなくても」「動いている(動いて見える)」アニメーションの技術はどこにいったのだろう、と思うのである。
贅沢な悩みである。
うーむ、論旨があっちこっちしてしまった。記事も分割できたらね。
そんな感じで〈スーパーインポーズと画面分割(スプリット)と2台のカメラ〉でした。
おしまい。
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