お酒とは、「富」である。
嗜好品であり、(大人の)嗜みであり、最低限の文化的生活からは遠い「贅沢品」ではあるが、しかし、どうしようもなく心にうるおいが必要なときが長い人生のなかでやってくる、らしい。
お酒を通して、人間の財力や地位を想像することは決して難しくはない。ドンペリを頼む男、マティーニを頼む男、いいちこを買って帰る男。酒の価値がそのまま財の尺度に変換される。お酒が飲めるからかっこいい付き合いいいみたいな観念はほんとにクソ。「ピーチウーロン? かわいいの飲むんだね」もクソ。「○○? あれはジュース」もけっこうクソ。
さて、感想文の続き。
『ヒナまつり』の第6話では、Aパートでヒナを中心とした新田家(実家)の様子を描き、Bパートではアンズを中心に公園からの退去→来々軒へ居候する様子が描かれた。
ふたつの話はクロスしないのですが、A/B両パートに共通し登場するアイテムがある。
「お酒」である。
空費されるお酒
Aパート。新田の実家に赴くと、新田妹と新田母がいる。
次々と開けられるビールは、新田家に馴染んでおり「新田(兄)が来るっていうから安心して-」とはいうものの、普段からけっこう飲んでる印象を受ける。
夜になり、お酒の間違った活用法が披露される。蟻の行列に向かって、なみなみと注がれるビール。
些事なのだ。ビールを捨てることなど。
酔いも廻りテンションの高まった妹は父親の仏壇の前でビール瓶を逆さに持ちだし、半分以上ある中身を畳のうえにダバダバとこぼしていく。こぼれたことも気にせずに、はしゃぐ妹。まわりも注意をしない。
些事なのだ。ビールがこぼれたことなど。
ビールの価値
新田家ではビールなど水と同価値であり、(水もホントはただじゃない)、買ってこればまた同じものがすぐに手に入る、くらいの認識しかない。壺とは違うのだ。
割れた壺は惜しんでも、「酒」を空費することに抵抗はない。これが、新田が住んでいる世界の基準的価値観である。
共有するお酒
Bパート。やっさんから告げられる公園からの退去命令。
散り散りにならざるを得ないホームレスの面々は、最後の夜に皆で二本の一升瓶をあけ、分け合う。分け合い、飲む。お酒は飲むもんだ。優勝が嬉しいからって仲間にかけ合うものじゃない。
彼らの財力は疲弊していて、一人一本とは到底いかない。多人数でシェアしてようやく少しづつ楽しめるような状態。
これがアンズとやっさんその他多くのホームレスが暮らす世界の現状を表している。
ある家では蟻にかけるような無駄使いをされ、ある店では「綺麗だから/盛り上がるから」とグラスのタワーを流れるだけの役目しか与えられないお酒。たかがお酒、されどお酒。お酒もお金も大きな違いはない。
なんだか残酷な話だなあ。
第三のお酒の話
うまい(うまくない
作品全体はギャグで包んであるんですけど、浮浪者が出てきたり無理強いする雇用者(詩子てめえ)が出てきたり、マルクス経済学の世界の影響を感じますね。構図として。ルンペンプロレタリアートなんて言葉があるくらいですし。まったく経済学に明るくない私。
詩子サイド(ブルジョア)の人たちは「お酒」の中身を消費してて、アンズ(プロレタリアート)たちはその外側──瓶だったり缶だったり──といった残りカスが生命線になっている。粟とかヒエでも食ってろって具合で、階級差を感じる。
食べ物と告白
食べ物の前では誰もが正直になってしまうんですな。
みんな『北の国から’84 夏』を思い出してたんじゃないでしょうか。ラーメン屋のあの一幕を。
そんな感じで、全体はギャグが散りばめられているのにアンズパートでは妙にしんみりしちゃうこともある『ヒナまつり』、面白いからみんな観ましょう。
おしまい。
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