『映画大好きポンポさん』、配信も始まりましたね。私はTOHOシネマズ梅田で観てきました。
レビュー()を書いていく前に、「ポンポさん」が面白いかつまらないかを論じる前に、『MEISTER』という企画がニャカデミー賞を獲れるようなクオリティだったのかの議論を深める前に──。そもそもあの”72時間”をみなさんどう受け止めてらっしゃるのか、ということが少し気になります。基本的に他者の感想とか、どうでもいいといえばどうでもいいんですけど。どう受け止めていらっせるの?
「72時間を90分にするなんて、さぞ辛かったろう……」というポイントで感動しているコメントを見かけたときに、天を見上げるような気持ちになりました。夢を追っている人に”こそ”観て欲しい、なんて勧め文句を見かけるたびに、「だからあなたは夢がつかめないままなんじゃないですか」と底意地の悪いことを思ったくらいです。
それぐらい大なり小なりトレースできるでしょ、と。表現者ワナビー特有の思い上がりの傾向がこのへんに滲み出ていますね。自由なのでいいんですけど。
お前がどうして憤っているのかさっぱりわからない、という方はU-NEXTで配信されている本作を観てください。
映像や演技に文句はありません。泥合戦のところはまた観たいくらい。
でもその前に、「72時間」について一緒に考えましょう。
72時間の素材を90分まで削る”修羅”のリアリティについて
劇場版『映画大好きポンポさん』には、謎の感動を誘っている「72時間の撮影データを90分まで(映画1本分まで)削る、編集する」というエピソードがあります。
フィルムか、データか。どっちだったかな。編集素材が72時間あったのは変わらないので、形態のディテールは置いておきましょう。まあ、デジタルでしょう。
鑑賞後すぐは「72時間のOKテイクを90分にした」と思っていて、「さすがにそれはないか。72時間の撮影テイクを90分にした、だよな」と思い直しているところです。それでも正常な範囲なのか甚だ疑問ですが。
で、72時間の撮影データ。あまりの膨大さに面食らった&耳を疑ったので少し考えてみたい。
72時間も何を撮ったの問題
夢を追っている人にこそ、とか笑止千万なことを言ってる観客が大勢いたくらいなので、こちらもいったん現実的な尺度で考えてみます。
現実的に、1本の映画で72時間も素材が溜まるってどうなの? さすがに無駄が多すぎません?
ドキュメンタリー映画じゃないんですよ。撮影方法が順撮り方式だったかは記憶に残ってませんが、脚本があった以上、何を撮るのかは大方決まっていたはずです。確かに現場で方向性や物語のオチが変わるといったことはあります(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の「私にペンを売ってみろ」とかもそうらしい)。
撮影シーンのひとつとして登場する美しい高原では、演者や撮影スタッフが撮影する映像に対し意見を出したりもしていました。もちろんこの「それ、いーねぇ! 採用♪」がのちに大幅な素材の増加を招いたのかどうか、具体的な物量は不明ですが、こういった積み重ねが素材の山を形成したのは間違いがないわけで。
そもそも「現場スタッフのアイデアが”どんどん”と出てきて、撮りたい絵が増える」って当て書きの脚本がすでにあるプロジェクトチームの進め方としてどうなの? チームとして、どうなの?
というか、あの撮影シーンで私はジーン君の「不適合さ」が実は大したことなさそうに思えてきて、めちゃくちゃがっかりしたことを添えておきます。ジーン君の不適合さってそんなものだったの?
それにしても72時間……。
日没までのタイムラプスでも撮っていたんですか?
一体どんな脚本から映像を撮り始めたら72時間になるんですか?
ジーン君が監督を務める劇中作『MEISTER(マイスター)』の前半か中盤にあたる部分には、劇中作の主人公ダルベールがリリーと出会う重要なシーンがあります。
この前半か中盤のシーンの編集中にジーン君はこんなことを言います(記憶あやふや)。
「もう1時間半を使ってる(焦りor困った様子」
本当に、どういう脚本なのこれ。どういうスタッフィングなの、ポンポさん!
劇中作『MEISTER』の脚本を考える
劇中作の『MEISTER』には当て書きの脚本がありました。脚本を書いたのはポンポさんです。
ポンポさんは「映画は90分が至高だ」というようなことを言いますが、この発言をもって『MEISTER』の脚本が90分程度の長さのものである証拠にならないことくらいは私でもわかります。
あくまでも『MEISTER』の90分は結果であり、ポンポさんの教えに則ったわけでもなければ、そういった指令があったわけでもない。
90分にまとめるべく編集する話じゃあなくて、必要だと思う限界まで削ぎ落としていって完成した映画は90分だった。この順番を理解していないと、もう映画を観ていたとは言えないんじゃないですか?
なーんでも面白くできちゃうポンポさんが、”取りに行く”脚本を書いたのであれば、短いところで90分、より商業的な視点を入れていったら100分-110分後半、140分を超えるものはまず書かないでしょう。あくまで予想ですが。
もちろん、脚本段階で映像の尺が決まるわけではなく、90分で描ける話を120分超えちゃったりする監督だっています。そして、そういうものをポンポさんはあまり良くは思っていなかったはずです。
ポンポさんの掲げる「90分の良さ」は、プロデューサー視点──映画を売れるかたちにするのが仕事の人間の視点で、その根拠には「観客に親切じゃない」というものがありました。これは映画評論家・蓮實重彦の「物語というのは90分あれば描ききることができる」というイズムや見解とはかなり毛並みが違います。
しかし、結論としては90分がベターなタイム感であるのは両者の共通点でもあります。
だから、何分の映画になるかということを脚本から推し量れないにしても、『MEISTER』は「90分前後でストーリーを描ききれる映画」であり「140分も尺を必要としない映画」であったと思います。そのくらいの当て推量でもバチは当たらないでしょう。
だからますますわからなくなってくるのです。
72時間も何を撮っていたの?(しつこい。シネフィルアコガレの駄目なところ)
複数台のカメラ、重複するシーンのデータがあったに違いない
映画をカメラひとつで撮りきれることは稀です。
会話のシーン撮影をひとつとってみても、
- 1シーンを取り続けるカメラが1台(マスターショット用のカメラですね)
- リバースショットなどを撮るためのカメラが2台
と、カメラを計3台使ったりします。
絶対に必要というわけではないですが、カメラを複数セッティングして、同じやりとり、同じシーンを別アングルから撮ることは多々あります。
つまり、72時間の撮影データにはけっこうなシーンの重複があると予想されます。
2分の本編のために必要な撮影素材
仮にカメラを3台回していれば、2分そこそこの「控え室でのやりとり」でも、6分強の撮影データになります。ものすごーい丼計算ですが。
さらには、それぞれOKテイク/候補テイクといった具合にその数はどんどん増えていきます。
しかも放映された本編では「2分そこそこの控え室でのやりとりのシーン」でも、実際は(撮影の段階では)5分間のやりとりであった可能性なども考えられます。そうなると撮影データはこのシーンだけでも15分~20分と膨らみます。
このようにひとつのシーンを本編に採用する状況ひとつとってみても、
- 撮影データが20分そこそこある状態から
- OKテイクを選択して
- OKテイクを繋いでみたあとに説明過多・テンポ感の重視などによる尺の省略調整
を経た結果、”使える”2分だけが残ります。
2分の”必要な映像”のために、20分の撮影データが存在します。
大体いまの映画の古今東西平均上映時間は105~110分あたりで収まっているので、そのまま割合だけスライドさせると、スムーズな撮影だと16時間36分~18時間18分くらいの撮影データがあれば1本の映画の分量になるのではないかと想像します。
『MEISTER』の多すぎる撮影素材
『MEISTER』の脚本もそこまで長いものとは考えにくい。
140分を想定しても、撮影が難航していても25時間くらいが関の山(使い方が怪しい?)ではないか。
さらにカメラテストで回したであろう、オフショットなんかも加えていけば撮影データはもう少し増やしてもいいかな、なんて。
しかしそれにしても、72時間は「捨てられない人間」でも無茶なレベルではないでしょうか。テストの分なんかすぐに削除しておけ。
「初監督なんだし慣れない環境で素材が多少平均をオーバーして溜まることくらい、許してやったらどうや?」という向きがありそうです。なんで私が不満に思っているのか、まったく理解されてない感じ。
ジーン君の手腕がどうこう言いたいわけでも、ポンポさんの采配にあーだこーだ言いたいわけでもないのですよ。いや、言いたいことはけっこうありますけどね。
私が納得いかないのは、このフィルムを削ぎ落とす行為というのは、ジーン君の人生を研ぐ行為、削ぐ行為のメタファーとして機能させていたからです。そこに虚飾を混ぜ込んできているから、嫌なんです。
削ぎ落とすものの大きさ
72時間のフィルムは、人生や生き方の選択、その象徴になっています。どれだけエゴイストになれるか、という部分です。
で、その「72時間」っていう数字の役割は、削ぎ落とす部分の大きさを示すためなんですよね。
削ぎ落としが大きければ大きいほど鋭い「尖り」になります。
シネフィルのジーン君が真の映画○○ガイとなるべく、親友とか彼女とか豪邸とか贅沢な食事とか、一見人生の華やかさに必要そうなパーツを、本当に自分に必要なものだけ(つまり映画)をのぞいて、全部を自らの手で捨て去っていく覚悟の表れ。
笑いを考えるのに髪の毛とかいらないだろと自ら坊主にした、ツチヤタカユキを思い出しますね。
覚悟の大きさは目に見えない
これがたとえば、13時間を90分にしました、だと「あんまり捨ててないな」「まあ映画作りってそういうものなのか」と思われる可能性もあります。必要そうなものまで選別のために捨ててしまった覚悟と狂気が観客は感じ取れない。
覚悟を示すなら、もっと家とか抵当に入れてから映画撮れよとか言われちゃうかもしれない。
だからあらゆるものを捨てに捨てる(場を作る)演出のために、72時間から90分──1/50までの厳選を行い、「超捨てるぜぇー」というモーションをとっていました。しかし、その数字に問題がある。もっとチーム・ポンポさんが(世間的な評判の通り)優秀であればこの数字は出てこない。撮影は難航しない。
ここにも違和感がありました。
72時間には初手から”全然捨てちゃえるもの”が含まれている可能性が高い。
削ぎ落とされた誰かの時間
別の視点でも気になる部分があります。
実際に72時間を作る過程で、付き合ったスタッフ(付き合わされたスタッフ)が大勢いたでしょう。
その人達の返ってこない時間、その人達の人生をフィルムに転化させる行為と、それをさらにざっくざっく切り捨てていく悪魔の所業。そんな迷惑、気が狂っていないと実行できないですよ。
もちろんそれが彼らの仕事であり、報酬にも触れているから外野が怒るところではないんですが。
監督というポジションに立つ以上はエゴイズムに身を置くことになるし、少なくない人数の人間を自分のやりたいことのために付き合わせるわけで、おいそれとジーン監督を好きになるのは難しい。でもやるんだよ、という覚悟が見えたとき、私も好きになると思います。
あーだこーだ言ってますがまとめると、多くを削ぎ落とすために用意した72時間と、「チーム・ポンポさん」の優秀さが演出的にバッティングしてるんだと思います。
72時間も無駄なテイクはじき出すチームなんか再招集しなくていいよ。
見たいのは正直者の覚悟と狂気だった
「そんなものまでたかだか映画(ktgi)のために切り捨てていくの?」という覚悟と狂気を見せつける場面で、観客(というか私)も要らないと思えるものが含まれていると、彼の覚悟が鈍ります。むしろまだ捨ててなかったのかよそれ、とかにもなりかねません。
これは人生というものを「盛っている」と言えなくはないか。盛られたものを見て、観客は「自分も襟を正さないといけんな」とか言っている。24時間TVか? 24時間TVの3倍の虚飾さか?(ゆで理論)
未来の無限の可能性”性”について考えるのは私も好きですが、欲しくないものを捨てても覚悟は描けないとも思うのです。
72時間、別の解釈
たぶん、72時間っていうのは、人生(≒寿命)から来た長さなのかもしれない、と思ったりもします。
とすると、映画として使えるような輝かしいシーンは人生において実は1年半程度の短さしかないよ、それ以下だよというメッセージも感じたりします。こんな呪いのブログ書いている場合じゃないよ。
図らずともエヴァ的な「外に出ろ」だったのか。まあこれもいま思いついたでっち上げなのですが。
そんな感じで〈『映画大好きポンポさん』の72時間と90分を考える〉でした。
おしまい。
関連リンク
- 『映画大好きポンポさん』公式サイト
- 映画『映画大好きポンポさん』配信サイト(U-NEXT、dアニメストア、アマゾンプライムビデオ、DMM TV)
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