『映画大好きポンポさん』の72時間と90分を考える

映画大好きポンポさんアニメ感想文

冒頭にインパクトのあるものをどーんと出して、時系列を戻したりする映画がいまだに多いのでそれに倣ってワンフレーズだけ最初に言います。

「”72時間の撮影素材”はいくらなんでも無茶・無理筋でしょ」

(※観客に「一体どういうこと?」と思わせてここでレビューの時系列が変わる)

 

TOHOシネマズ梅田で『映画大好きポンポさん』を観てきました。

セッション』のオープニング、暗幕+アンドリューのルーディメンツを想起させる、〈CLAP〉のロゴとともに湧き上がる拍手に想像力豊かにニンマリしつつ、右に向かって走るジーン君と左に向かうナタリーのカットのつなぎが2人の運命的な出会いを見事に暗示していて、このあたりで「この映画は信頼できるな」と思いました。

その予感は裏切られることなく、画面分割・マッチカット・ワイプ・ジャンプカットといった力の入ったトランジッション(カットの繋ぎ)が矢継ぎ早にシーンを次へ次へと進めていく。ファッキンテンポとゴダールの声がする。しないしない。

まさにこの映画は「編集映画」である、と訴えかけるように、手練手管様々なバリエーションを繰り出していき、観客に”編集者”の存在をじわじわと刷り込んでいくのです。

ロバート・アルトマンの『ザ・プレイヤー』のような、「カメラが回っている最中にカメラの話をする」といった、メタ構造とは言わないまでも編集を編集で言及するようないわば「俯瞰的な箱を覗く構図」を突きつけられた私は、

「これはあれだな。ラストでもう一回このインタビューの続きになって、観客へのメッセージを求められたジーン君かポンポさんが『ダニ共、死刑に処す。くたばれ』と言い放ち、どこからともなく劇場内で銃弾が飛び交い、最後に平尾隆之と杉谷庄吾の2人(実写)が出てきて『おれの最高傑作だ』って言って終わるやつだな」

と思ったもんです。

冗談です。

懐かしい映画は置いといて。

色トレスの光描写も面白みがあるし、撮影の強さも見せつけていってる。いい映像だ。楽しい映画になりそうだ。

と思っていたのですが……。

さすがにあの”72時間”を見過ごしたままでは、映画の評価も感想も言えんのではないか。

下書き全文は80万文字くらいの文量でしたが、気合い入れて5000文字に濃縮しております
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72時間の素材を90分まで削る”修羅”のリアリティについて

フィルム? データ? どっちだったかな。編集素材が72時間あったのは変わらないので、形態のディテールは置いておきましょう。まあ、デジタルでしょう。

鑑賞後すぐは「72時間のOKテイクを90分にした」と思っていて、「さすがにそれはないか。72時間の撮影テイクを90分にした、だよな」と思い直しているところです。それでも正常な範囲なのか甚だ疑問ですが。

で、72時間の撮影データ。あまりの膨大さに面食らった&耳を疑ったので少し考えてみたい。

72時間も何を撮ったの問題

いったん現実的な尺度で考えてみて、1本の映画で72時間も素材が溜まるってどうなの? さすがに無駄が多すぎません? ドキュメンタリー映画じゃないんですよ。

撮影方法が順撮り方式だったかは記憶に残ってませんが、脚本があった以上、何を撮るのかは大方決まっていたはずです。

撮影シーンのひとつとして登場する美しい高原では、演者や撮影スタッフが撮影する映像に対し意見を出したりもしていました。それでも、「スタッフのアイデアがどんどんと出てきて、撮りたい絵が増える」ってプロジェクトチームとしてどうなの? チームとして、どうなの?

というか、あのシーンで私はジーン君の「不適合さ」が実は大したことなさそうに思えて、めちゃくちゃがっかりしたことを添えておきます。ジーン君の不適合さってそんなものだったの?

もちろんこの「それ、いーねぇ! 採用♪」がのちに大幅な素材の増加を招いたのかどうか、具体的な物量は不明ですが、こういった積み重ねが素材の山を形成したのは間違いがないわけで。

それにしても72時間……。

日没までのタイムラプスでも撮っていたんですか?

一体どんな脚本から映像を撮り始めたら72時間になるんですか?

MEISTER(マイスター)』の前半か中盤あたりにあたる、ダルベールとリリーが出会うシーンまでを編集していたジーン君は、このシーンの編集時点で「もう1時間半を使ってる」って言っていました(記憶あやふや)。

本当に、どういう脚本なのこれ。どういうスタッフィングなの、ポンポさん!

『MEISTER』の脚本を考える

劇中作の『MEISTER』には当て書きの脚本がありました。脚本を書いたのはポンポさんです。

ポンポさんは「映画は90分が至高だ」というようなことを言いますが、この発言をもって『MEISTER』の脚本が90分程度の長さのものである証拠にならないことくらいは私でもわかります。

あくまでも『MEISTER』の90分は結果であり、ポンポさんの教えに則ったわけでもなければ、そういった指令があったわけでもない。

90分にまとめるべく編集する話じゃあなくて、必要だと思う限界まで削ぎ落としていって完成した映画は90分だった。この順番を理解していないと、もう映画を観ていたとは言えないんじゃないですか?

ただし『映画大好きポンポさん』は90分に縛られた映画であったことは留意したい

何でも面白くできちゃうポンポさんが、”取りに行く”脚本を書いたのであれば、短くて90分、より商業的な視点を入れていったら110分-120分後半、140分を超えるものはまず書かないでしょう。あくまで予想ですが。

もちろん、脚本段階で映像の尺が決まるわけではなく、90分で描ける話を120分超えちゃったりする監督だっています。そして、そういうものをポンポさんはあまり良くは思っていなかったはずです。

だから、何分の映画になるかということは脚本から推し量れないにしても、『MEISTER』は「90分前後でストーリーを描ききれる映画」「140分も尺を必要としない映画」ではあったと思います。そのくらいの当て推量でもバチは当たらないでしょう。

だからますますわからなくなってくるのです。

72時間も何を撮っていたの?(しつこい。シネフィルアコガレの駄目なところ)

複数台のカメラがあったに違いない

映画はカメラひとつで撮りきれることは稀です。

会話のシーン撮影をひとつとってみても、

  • 1シーンを取り続けるカメラが1台(マスターショット用のカメラですね)
  • リバースショットなどを撮るためのカメラが2台

撮影するカメラは計3台使います。

絶対に必要というわけではないですが、こうやってカメラを複数セッティングして、同じやりとり、同じシーンを別アングルから撮ることは多々あります。

つまり、72時間の撮影データにはけっこうなシーンの重複が予想されます。

仮にカメラが3台あれば、2分そこそこの「控え室でのやりとり」でも、6分強の撮影データになります。ものすごーい丼計算ですが。

さらにはそれぞれのOKテイクと候補テイクもあればその数はどんどん増えていきます。

しかも放映された本編では「2分そこそこの控え室でのやりとりのシーン」でも、実際は(撮影の段階では)5分間のやりとりであった可能性なども考えられます。そうなると撮影データはこのシーンだけでも15分~20分と膨らみます。

このようにひとつのシーンを取ってみても、撮影データは20分そこそこある状態からOKテイクの選択、OKテイクを繋いでみたあとに説明過多・テンポ感の重視などによる尺の省略を経た結果、”使える”2分だけが残ります。

2分の”必要な映像”のための20分の撮影データ。

大体いまの映画の古今東西平均上映時間は105~110分あたりで収まっているので、そのまま割合だけスライドさせると、スムーズな撮影だと16時間36分~18時間18分くらいの撮影データがあれば1本の映画の分量になるのではないかと想像します。

めちゃくちゃどんぶり計算です。鵜呑みにしないように

『MEISTER』の脚本もそこまで長いものとは考えにくいので、撮影が難航していても25時間くらいが関の山(使い方が怪しい?)ではないか。

これらにさらにカメラテストで回したであろう、オフショットなんかも加えていけば撮影データはもす少し増やしてもいいかな、なんて。

しかしそれにしても、72時間は「捨てられない人間」でも無茶なレベルではないでしょうか。テストの分なんかすぐに削除しておけ。

勝手に選択肢を増やしておいて、勝手に迷っている。やや滑稽である。

この演出ばった虚飾された72時間という数字はなんなのか?

削ぎ落とすものの大きさ

72時間のフィルムは、人生や生き方の選択、その象徴になっています。

で、その72時間っていう数字の役割は、削ぎ落とす部分の大きさを示すためなんですよね。

削ぎ落としが大きければ大きいほど鋭い「尖り」になります。

シネフィルのジーン君が真の映画○○ガイとなるべく、友情とか彼女とか贅沢な食事とか、一見人生の華やかさに必要そうなパーツを、本当に自分に必要なものだけ(つまり映画)をのぞいて、全部を自らの手で捨て去っていく覚悟の表れ。

笑いを考えるのに髪の毛とかいらないだろと坊主にした、ツチヤタカユキを思い出しますね。

これが10時間を90分にしました、だと「あんまり捨ててないな」と思われる可能性もあります。もっと家とか抵当に入れてから映画撮れよとか言われちゃうかもしれない。

だからあらゆるものを捨てに捨てる(場を作る)ために、「超捨てるぜぇー」というモーションをとっている。しかし、その数字に問題がある。もっとチーム・ポンポさんが(世間的な評判の通り)優秀であればこの数字は出てこない。撮影は難航しない。

72時間には最初から不要になる可能性が高いものが組み込まれている。

見たいのは正直者の覚悟と狂気だった

「そんなものまでたかだか映画(ktgi)のために切り捨てていくの?」という覚悟と狂気を見せつける場面で、観客も(というか私)要らないと思えるものが含まれていると、覚悟が鈍ります。むしろまだ捨ててなかったのかよ、とかにもなりかねません。

まだその可能性にしがみついてたのかと。成人のくせにまだ甲子園出場とか夢見ていたのかと。

これは人生というものを「盛っている」と言えなくはないか。盛られたものを見て、観客は「自分も襟を正さないといけんな」とか言っている。24時間TVか? 24時間TVの3倍の虚飾さか?(ゆで理論)

未来の無限の可能性”性”について考えるのは私も好きですが(「そんな未来もあったかもね」というやつです)、欲しくないものを捨てても覚悟は描けないとも思うのです。

削ぎ落とされた誰かの時間

実際に72時間を作る過程で、付き合ったスタッフ(付き合わされたスタッフ)が大勢いたでしょう。

その人達の返ってこない時間、その人達の人生をフィルムに転化させる行為と、それをさらにざっくざっく切り捨てていく悪魔の所業。そんな迷惑、気が狂っていないと実行できないですよ。自分だけの映画やないんやで。

もちろんそれが彼らの仕事であり、報酬にも触れているから怒るところではないんですが。

監督というポジションに立つ以上はエゴイズムに身を置くことになるし、少なくない人数の人間を自分のやりたいことのために付き合わせるわけで、おいそれとジーン監督を好きになるのは難しい。

あーだこーだ言ってますがまとめると、多くを削ぎ落とすために用意した72時間と、「チーム・ポンポさん」の優秀さが演出的にバッティングしてるんだと思います。

72時間も無駄なテイクはじき出すチームなんか再招集しなくていいよ。

72時間、別の解釈

たぶん、72時間っていうのは、人生(≒寿命)から来た長さなのかもしれない、と思ったりもします。

とすると、映画として使えるような輝かしいシーンは人生において実は1年半程度の短さしかないよ、というメッセージも感じたりします。こんな呪いのブログ書いている場合じゃないよ、と。

図らずともエヴァ的な「外に出ろ」だったのか。まあこれもいま思いついたでっち上げなのですが。

そんな感じで〈『映画大好きポンポさん』の72時間と90分を考える〉でした。

おしまい。

関連リンク

『映画大好きポンポさん』公式サイト

グダグダと綴っていたプロデューサーカット版が掘り起こされた模様です。

『映画大好きポンポさん』の72時間と90分を考える〈オーサーズ・カット デラックス版〉
数多のディレクターズカット版には、カットしたなりの「面白くない理由、いただけない部分」があるものだ、という映画ネタを組み込んだ感想文になっています。編集が施されてすっきりした”まだマシな”ポンポさんのレビューはこちらで読めます。 『映画大...

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