実写版『がっこうぐらし!』観にいきました in 梅田

アニメの話

先行する情報とノイズが多すぎてフラットな気持ちで観ることはもう不可能だと諦め、おとなしく『がっこうぐらし!』(実写)を観てきました。

「帰る場所があるっていいなあ」
「安心して眠れる布団があるって幸せなことだったんだなあ」

なんてことは一切思い返さず、なぜ私はまだ『ミスターガラス』を観てないのだ、と首を傾げて帰宅。

私のフォロイー(280人)のなかで鑑賞を確認できたのは1名で、日本人口1億2600万とすり合わせるとどんぶり計算でだいたい全国で45万人くらいがもう鑑賞済みなのだと思います。なので、もう、ゴ……内容に触れてもいいよね?

感想や鑑賞報告を書くにあたって、「損させないから絶対観て!」とか「原作組はもれなく観ろ」とか、あんまり軽々しく言えないなーとぐるぐる考えている。私には傑作だったから、好みは人それぞれだから……後からなんとでも言えるけれどTVシリーズの1話だったらともかく、上映されてる劇場までの移動費とか1800円のチケット代とか、「どうか確認してください」をするには安くないオカネがかかってしまうなと(『君の名は。』のときも同じ主旨の危惧してました。優しいな自分)。

私が言えるのはせいぜい、文句を言いたいなら「観ろ」くらいです、はい。

 

(何も語っていない4800文字が、ここにあります)

[PR]

実写化(映画化)に対して

私は原作ファンではないし、アニメ版『がっこうぐらし!』は視聴したものの、年間ベストに入れるとか二期を待ち続ける熱量がずっとあるとか、そういうものは失礼ながら持っていなくて。特別な思い入れがないぶん、”かれら”みたいに目が濁ったりはしてないと自覚しています。大した審美眼も持ち合わせてないくせに偉そう。

むしろ、私が危惧していたのは”柴田一成監督作品”のほうでして。

粗雑な物語、消化不良感ありありのアクションつなぎ、無駄にうるさいだけだったフォーリーなどが繰り出される『リアル鬼ごっこ』で友人の信頼を失った過去がある身としては、「親でも殺されたか?」の半分くらいには良くない感情を持っているわけです。もう二度と監督の作る映画は観ないと誓っていたのですが、TLに試写会大絶賛のツイートが流れてきたせいでレンタル屋に出向く羽目に……。この方も、うかつに信用しないリスト入りですね。

柴田一成参加フィルム

そして借りてきたDVDたち。

地獄の三日間のリファレンス、ありがとうございました。

 

結果、過去作品での悪いところが本作でも継承されていたりといった発見ができる有意義な時間を過ごせました。

ジャンルと軸足

アイドル映画としての側面とかゾンビ映画としての側面とか、そういう評価軸で語っているのをよく見かけましたが、忘れないでほしいのは、原作(とアニメ版)はゾンビ要素こそあれどアイドル要素はないってことでしょうか。彼女たちは普通の学生だったので。

実写映画化に際し、主役にアイドルを起用して初めて、「アイドル映画として」という評価軸と視点が生まれたんです。ここはちょっとだけ留意するべきかなと。そうか?

では、ざっくりと雑感を。

アイドル映画として

アイドルを主役に起用した映画がアイドル映画なんじゃなくて、主役をアイドルにするのがアイドル映画なんだ! とかそれっぽいことを言ってみる。

ともあれ、主役の四人はアイドルです。

アイドルの魅力って、歌えるだとか動けるだとか、もとを辿れば健康体や生命性としての美しさがあるんじゃないかと。そう考えるとどれだけ魅力的に彼女たちを撮ることができるかが重要。

『リアル鬼ごっこ』『リアル鬼ごっこ2』と脚本参加の『携帯彼氏』を通して、ヒロインの(生)足を強調しがちだという共通項をなんとなく見つけました。お尻のラインを観せたり、胸部や鎖骨のアップとかはなかったので、足にfetishを持っているのかもしれない。足、あるいは生足。あるいは肌。お腹チラ見せ(あれは胡桃の奔放っ気のある性格の現れでもあるか

リアル鬼ごっこ 山本美月
『リアル鬼ごっこ』より

 

本作も(というか本作が一番……)太ももを中心とした足まわりの撮り方にこだわった様子が伝わってくる。心のなかで「みえ……」を何度か唱えてしまった。

ライン萌えよりも生肌萌えのほうが安易だ、と思ってしまうのは私の高尚ぶりたがりのせいだろう。話は逸れますが、ゆき役の人はサラシとか巻くべきだったのでは……って気持ちもある。

叫びの演技とかは前評判のとおり上手くはない。でも実年齢に近い役柄を演じているだけあって、ちゃんと高校生に見えるのはいい。

くるみ役の阿部菜々美さん、お顔を左から撮るの大正解な気がする。
特に笑顔のときに浮くえくぼがよい。

その他アクションまわりのもったいなさ

レイアウトの良さ、画面構成力はあまりインパクトがなかったです。ノワール風味のあれもそこまで……。

四人を並べて話すカットで右から撮ったり左から撮ったり、肩越しの繰り返しだったり、「お前、カメラの画角意識してないとそうは動かんやろ」っていう感じのみーくんの不自然なフレームインの動きがあったりして。映画なんだなこれ、と観客が思ってしまうのは良くない。何度かあったPOVも妙に低い位置からのように見える。

ゆきが車から飛び降りるところとか繋がりがぎこちない。どうしてあのアクションでカットを割るのかがよくわからない。

序盤のくるみのクラウチングスタート。補助器具の前にセットした左足が先に浮き上がったらダメでしょう! 経験したことないにしてもそんなことって……。

くるみがパッと顔を上げてランニング中の先輩を目で追うカットで、先輩の前で走ってる別の先輩(?)赤いゼッケンかジャージを着てるんですよ。暖色寒色を並べたら暖色のほうに視線が流れてしまうんだから、物語に関係ない人間に余計な服着せないでほしかった。

 

ゾンビ映画として

がっこうぐらし! ゾンビ
『がっこうぐらし!』予告編より

 

原作がある以上、ある程度の縛りは発生してしまうもので。
ゾンビを走らせるなんて勝手は流石にできないわけですよ。

題材をお借りしたうえで守るところは守りつつ攻めるとこは攻めつつ映像化していくわけですが。本作のゾンビ達、数あるゾンビ映画(あるいはモンスター映画)と比較した場合、とてもイージーな部類に入るなと私は思いました。

ゾンビィが割とイージーモード

走る・壁をよじ登る等の掟破りなファンタジーゾンビ映画を観たせいもあるんでしょうけど、ゾンビが生易しい。殺る気に波があるんですよね、消極的ゾンビとでも言いましょうか。強敵と思えないので緊張感が生まれにくい(死なないことを知ってるから、が背景にあるにしても)

あとは血。

ゾンビとの戦闘時、シャベルやバールでがんがん殴るんですけど、血が全然出ないので、物足りないですね。血がないとこんなにも生と死を感じにくくなるものなのかと驚きました。

決して『ハイテンション』みたいなのが観たいわけじゃあないですけど、『SAW』であったタンクの蓋でバコバコやったときの返り血みたいな、軽く戦慄を覚えるくらいの描写がほしかったです。全編通して”痛さ”を感じなかった。感じたかった。

間違った省略が生む裏切り

上で緊張感がないと書きましたが、本編中、何度か”絶望的な状況”がありました。

圭がゾンビに捕まってしまうところや、教室のバリケードが破られてりーさんとみーくんが襲われるところなど。絶望的な状況、なくはないんです。面白くなりそうな上昇ポイントがいくつかはあるんです。

 

しかしこれが評価の分かれ目や争点になりそうな部分で。

これは完全に監督の悪い癖だと認識していますが、省略の仕方が粗雑なんですよ。

シャワーシーンがないじゃないかって怒ってるんじゃないです。

「なんとかなりました」じゃ済ませられない部分まで省略して、間の描写がすっぽり抜けてる。なので、どうやって状況を打破できたのかがわからないんですよ。

ゾンビに囲まれて、(これは流石に突破できないな)と匂わして──絶望的な状況のさわりだけちらっと見せて──いったん別のカット(シーン)に飛ぶ。で、再度戻ってきたら状況が好転していて、「さっきのあれはどうなったの?」と頭が混乱するけど、そこに関する描写はない。明らかに重大局面だったはずなのに「なんとかなりました」的にすっ飛ばした結果だけ出てくる。

これは都合が良すぎる。

うやむやにするの良くない

『リアル鬼ごっこ2』での話なんですが、追い込まれて敵もろとも爆発しようとするシーンがありまして、直接死んじゃう描写はないから後で生き残って現れるんだろうなと思ってたら、ほんとに詳細は省いてしれっと出てきて。すごくつまらない演出を観せられた苦い記憶があります。

「死んだと思わせて生きている」自体はいいんですけど、生き残ろうとするアクションだったり生き残れそうな導線までは描写するべきで、それが映画と物語に対する「誠実さ」じゃないですか? 『バイオハザード(実写)の、カプランが死の淵から生き残る選択をするシーンみたいな。ああいうフェイクが観たかった。

 

圭のことの後どうやってみーくんは生き延びたのか、りーさんとみーくんを襲ったゾンビの半数はどこに消えたのか、という点に「それなり」の理由が私には用意できないんですよ。「流石に突破できないな」という状況を、かんたんに突破した理由が皆目わからない。

火災に関してもそうですよ。ちょうどいい規模の火災には全く納得がいってない。

コップに原作でもあったキャラクターのイラストが描かれてるとか、そんな堤幸彦が有り難がるようなディテールの詰め方が「誠実さ」だとは、私は思わないです。

会話の隙間について

作品のタネを知っているから余計に敏感に感じていた部分なのですが、会話の間のとり方に違和感がありました。

というのも、実はめぐねえはゆきの頭のなかにしか存在しておらず、ほかの三人には見えない。だからめぐねえの声(と姿)は、頭がおかしくなったゆきと私達にしか聴こえない。存在しないので当然です。

A「お腹すいたね」

B「なんか美味しいの食べたいね」

↓  D「駅前に新しくパン屋さんできたって」(めぐねえ)

C「パン……食べたいかも」

AB「パンか。いいね、そうしよう」

仕組みを真似するとこんな感じで。

このびっくりのタネを観客に悟られないように会話上のセリフやカメラの撮り方が工夫しているわけです。予告でゾンビものってネタバレしてどうするよって誰彼が騒いでいたけども、あれはジャブであって、実際のストレートはこっちでしょ。

で、肝心の会話がなかなかにぎこちない。滑らかにいかなくても問題ないやり取りであることはわかるんですよ。むしろぎこちなくて当たり前のやりとり。

でも、いざ頭のなかでめぐねえのパートを抜いて聞いていくと間がスカスカすぎて……。タネ知らない人に勘ぐられるんじゃないかなってヒヤヒヤする。

漫画から、アニメや映画などの”音声が入るメディア”に移行したことによるコミュニケーションスピードの齟齬ですね。そこの壁がいまいち超えきれていないかなといった印象でした。このあたりは『シックスセンス』と『マシニスト』を参考にしていただければあらたな発見があるかもしれません。レンタルで良いので観ろ。

 

めぐねえの話に続く。

コメント(承認制)

タイトルとURLをコピーしました