24分でひと括りの放送形態のなかで、おおきなまとまりの「物語」を複数回にまたいで構成することについて、少し考える必要があるかなと思わせるペース配分でした。必要があるかなと思っても、特に改めて考えないとは思いますが。
放送が終わってしまったので、後半戦、鋼人七瀬攻略議会のアニメの向いてなさについて、軽い推論でも。
アニメ『虚構推理』は小説が原作である
メディアミックスとしてアニメ化した本作ですが、小説とアニメの違いはどこにあるのか。絵の有無、サウンドの有無、理解すべきメディアの違いは多々ありますが、小説の読者には時間の制限がない点に今回は注目したい。
小説や漫画はタイムアウトのない娯楽媒体で、ここで一旦中断するか、という選択は読者の裁量で決まり、後の展開が知りたければもう少し読み進める自由と権限があります。
対して、アニメには1本24分(本編21分)というパッケージサイズがあり、(強制的な)区切りが生まれる。さながら握手会の剥がしのようで「あともう少し……」は望めない。主導権が視聴者側にないのが、アニメ・ドラマ・映画などの映像作品と言えましょう。
クリフハンガー(原義とは違う)という特効薬
アニメやドラマでは、作品の全体を観てもらうために、視聴者を離脱させない工夫、区切りで生まれる溝(一週間のインターバル等)を繋ぐ施策を行う必要があります。
わかりやすいのは、いわゆるクリフハンガーと呼ばれるメソッド。
クリフハンガー(英:cliffhanger または cliffhanger ending)とは作劇手法の一つで、劇中で盛り上がる場面、例えば主人公の絶体絶命のシーンや、新展開をみせる場面などを迎えた段階で結末を示さないまま物語を終了とすることである。
もともとのクリフハンガーとは少し使い方が変わってきていますが、ここでの「クリフハンガー」は、「匂わし」というか「引っ張り」のほう。
海外ドラマ(特にアメリカ)の用語としては、やや原義とは異なり、中途半端な終わり方でその続きが気になるようなシーズンエンド(つまり作品全体の大団円ではなく、1シーズンの最終回)での物語の進行を遅延・未解決にする作劇手法を指す。そのため、一般的にアメリカのテレビドラマの場合、「シーズンエンド」と同義語である。
日本の連続テレビドラマや連載小説・漫画・テレビアニメなどの各話において、クリフハンガーと同様の手法が用いられるが、これは一般に「引き」あるいは「引っ張る」と呼ばれている。
この結末(※物語の最終的な結末ではなく、パート分けされた疑問や事象の結末)はどうなってしまうのかといった「知りたい欲」を刺激して次回の視聴を狙う方法です。当然、視聴者は次回で自分の疑問が解決されると期待して視聴にのぞむわけです。
つまり、起承転結の「結」でしっかり終わるのではなく、「転」や「新たな”起”」(それは転と呼ぶべきかもしれないが)が次回への欲をかきたて推進力を持続させていくかたちで終わる。
21分が必ずしも「起承転結」や「序破急」のフォーマットで構築されているわけではないし、そういった構成が絶対正義ではないのだが、いつからか(脚本術の教則本が普及し始めたあたりからか)このような見方が視聴者にも根付いていったのだろう。虚構反省します。
タイムアウトのない面白さ
さらに戻り、小説ではタイムアウトによる強制的な区切りもないため、「繋ぐためのクリフハンガー的な山場」を無理にこさえる必要は特にないし、囚われてもいない。
このタイムアウトの不在は小説の優位点と言えるでしょう。
島田荘司『占星術殺人事件』の病的な手記、小野不由美『屍鬼』の田舎に漂う陰鬱さ描写などを例にとってもわかるように、「起」が濃密になろうと「承」が冗長になろうと、”肩透かし”にはならない。
これは、
──のであれば問題はない。
もちろん、面白さが担保されているかどうかを無視するわけにはイカないが、暴力的に解釈すればそういう話である。
崖下1mでぶら下がっても恐怖はない
『虚構推理』作中の、殺害方法の詳細や鋼人七瀬の正体についての掲示板上でのやりとりは、もともとが長めの尺度を要する物語で、二転三転する”高度なじょうほうせん”ではあるけれど、怒涛の「転」のように見えて、しかし俯瞰してみると性質は平たい「承」である。
そんな「承」の性質を持つ物語を、アニメでの放送にあたり、いくつかに分割して、各話の締めにクリフハンガーの味付けをするとなると、些事で大げさなリアクションを取っている人間を観ているような波長のズレを感じてしまうのは仕方のないことでもあります。
本来は章分けと共に一呼吸入れるくらいの新情報──間違っても一週間のインターバルを繋ぎ止められるほど、視聴者を惹きつけるような新事実ではなかったはずである。それを大仰にクリフハンガーらしく修飾してもパンチとしては弱く、分が悪い。
やはりBパートのラストではフックとして小さく見え、摂取した情報量には満足がいってない。それなのに「あともう少し」は許されないときた。
換言し、「話が進むのがなんか遅えな」という印象に。
これが、後半戦を観ていてイマイチ高揚してこなかった原因じゃないかなあと思った次第です。
結局、最後まで観ていたわけですが
しかし、「結末がどうなろうが、もうどうでもいい!」と思うほど作品に魅力を感じなかったわけでもありません。
おひいさま、かわいいね。第1話のアクションいいね。会話しながら切り株に腰掛ける作画良いね(第2話)。
といったところも多々ありますが、アニメ『虚構推理』について語るうえで触れておかないといえないのは、口パクの作画ではないでしょうか。
『虚構推理』徹底した顔の角度
口パクのセルを組むときは閉じ口・なか口・開き口とだいたい3つのパターンを並べて、キャラクターの発声を表現しています。
高度にリップシンクまで再現している作品もあれば、「お」の口なのに「ガッハッハ」みたいな演技が乗ってる場合もあります。まあそれは置いといて。
口パクでたびたび問題視されるのは、キャラクターの顔の向き次第では開き口の絵に違和感が生じることがある、というもの。
どこかしらで見たことあると思いますが、こういうのです。
上下の唇による谷が横顔用に描かれているのに開き口のセルは左にあるので、頬に不思議な凹凸があるように見える。ちょっとしたキュビズム。
もっといくと、完全に真横から撮ってるのに、口パクさせてたいから口が頬まで移動してるようなものもあります。資料が用意できてませんが。
これ、けっこうな視聴ノイズになるのです。いまさらいちいち揚げ足取ったりはしないにしろ。
このノイズを排除するために『虚構推理』では3つのKUFUをしていました。
- 喋るときは奥っ側の頬が十分に見える角度からしか撮らない
- 許容された角度に向き直してから喋り始める
- 横から撮る場合は顎までまとめて動かす
このK.U.F.U.が全話を通じて徹底されていて、感心しました。偉そう。
1.両頬が見える角度の徹底
正面寄りの両方の頬が見える位置にカメラを置く。モホロビチッチ不連続面だがグーテンベルク不連続面を思い出しますね。
許容角度内であればアオリもフカンも対応可。カメラの位置と顔の向きを守れば、他の顔のパーツは動かさず口セルの回しだけで発声の表現ができるので、線の数も少なく(表現はあれですが)作業面でも楽です。
2.向き直ってから話す
向き直りの動作があったので、本作では顔の向きを徹底してるんだなと確信できました。顔を動かさずに話し始めたら、違和感が出るか顎から動かす必要性が出てきます。
そこで、口セルだけで成立する顔の角度を作ってから口パクを始めるのですが、向きを変える作画カロリーと顎ごと動かすカロリー、どちらが手間なのかはわかりません。
3.顎付近をまとめて動かす
引きのショットで対面しているカットなど、位置情報も加えるために横から撮る場合などは、「口セルだけで」が通用しないので、顎ごと全体で動かしていました。
実際に動かすのは「上唇・顎のライン・喉」の三点セットが多かったです。
三点セットで動かすこと自体は、他作品や他制作会社と比較しても珍しくはないのですが、やはり一手間増える動かし方ですし、そこに向き合った事実を讃えたい思いです。
「徹底された」とは言ったものの……
ひとつもなかったわけではないので、突っ込まれるまえに先出ししておいて反論を未然に防いでおきます。虚構防衛。
でもまあ、個人的には許容範囲ですね。つながってない部分は厚みの表現となり、その厚みが許容範囲。口セルが外のラインに寄っていれば違和感は少なくなるのだと思います。許容範囲を越えるとキュビズムっぽく別の角度が浮かんでくるのでしょう。
『虚構推理』、一挙に観るのがおすすめです
ド派手なアクションは第1話が顕著でしたが(アクションありロジカル推理ありの大好物になると思っていた時期が私にもありました)、全体通して絵のバランスは高水準で、決して注目どころとは言えない部分に絵の強さがありました。おひいさまのほっぺをつまむサキさんの指とか。神は細部になんとやら。赤紫に変化する色相がサイケな異空間っぽさを際立たせていて、すごい好みです。
おしまい。
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