では前回に引き続いてディレクションについてのお勉強タイム。
『少女終末旅行』を例にした、左右に潜むディレクションのポジネガの性質について。考察ってほど偉そうなものでもない。
え? 私ですか? わたしは……ちーちゃん派ですね。
ちとかわいいよちと。
ディレクションの効果その2
もうひとつ「画面の向き」には効果がありまして、それが「ポジティブな右への流れ」と「ネガティブな左への流れ」──というもの。
この記事もそうですが、本来、文字の流れは左から右へ、あるいは上から下へ読み進めるものです。これはもはや無意識に脳に刷り込まれた感覚で、人間は右へ流れるものには抵抗が少なく、左への流れには抵抗を感じます。
しかしこれは西洋文化圏などに当てはまるような話で、日本には縦読み左流れの文章って馴染みがあるんですよね……。国語の教科書もそうですし、小説や雑誌や新聞に至るまで様々。漫画だって視線の流れは右上から左下です。だから日本国内の文化に触れていると、この論ずるところの抵抗感はおそらく少ない。「なんとなくの気持ち悪さはあるような気もするけど……」くらいで、わりかし免疫の土壌ができちゃってる感はある。
まあ、昔の偉い人が言ってんだし、話くらいは頭に入れておきましょう。ははは。
アンバランスな左への進行
右に進んでいくものには正当性や高揚があり、
左に進んでいくものには不安感や息苦しさがある。(らしいです
スーパーマリオ、ゴエモン、ファイナルファイト、ロックマン、殊勲の2Dスクロールゲームはみんな右に右に進んでいきますね。抵抗がないように右に進んでいるのか、右に進んでいたから抵抗が無いのか、ニワトリと卵に近いところもありますが、なんとなく感覚として理解できたでしょうか? あ、『ファイナルファンタジー』シリーズは左向いてんな……。
この演出効果を頭に入れて観てほしいゲーム動画があるんです。『Braid』ってパズルゲームです。もしかしたらこの効果を狙ったんでは? なんて。 (5:10くらいまででいいです)
主人公を助けるような女の子に見えますが、実は主人公が恐ろしいストーカーで、彼女のアクションは彼から逃げるための妨害行為だった……と、後半(動画3:30あたり)でひっくり返されるというもの。
このゾワッとくる恐怖感は、左への進行っていう居心地の悪さが相まってると私は思う。善人は右へ進み、悪人は左へ進む。
真相はてんでわかりませんが。
左側には良からぬものがあるとか、ゴールは右側に用意されているとか、実際は好き勝手どうとでも言えてしまうけれど、傾向としてこういう配置は多いんじゃないかな。
『ワイルドバンチ』での横並びはクールですが、彼らは左に向かって進んでいました。「それは死地に向かうからだ、死地は左にあるのだ」そんな解釈つけができる。仮に、反転して左に進んでいたなら「彼らには命を落とす覚悟がしっかり出来上がっていて、いまからの決戦に迷いは一切ないのだ」とでも言っておけば”ポジティブな右”の完成である。
『ユージュアル・サスペクツ』のラストシーンはカイザー・ソゼの歩くシーンでした。彼は悪人だが、彼の視点からみれば容疑者扱いから解放され逃げおおせた瞬間であり、足の向かう先は希望なのである。だから、彼は画面右に進み、彼を拾った車も右へ進んで消えたのだ。足の向かう先……ふふふ。
──。
正直なところ、全部が全部その解釈が通じるわけではないし解釈なんて無数なので、こじつけがましいことを言っている自覚もあります。冷奴に現在社会の不安を感じることも可です。
『ルパン三世 カリオストロの城』でクラリスの幽閉された塔へのルパンの跳躍は左へ流れていきますが、特に違和感ないですし。でもでも、『カリオストロの城』も『プリンセス・プリンシパル』の第1話も、逃亡カーチェイスは画面左に向かって逃げていて、そちらのほうが緊張感/追い詰められている印象が出るとは思いました。
『少女終末旅行』に漂う妙な安心感のなさ
読み飛ばしましたね_? 別に、いいですけど。
私が提唱した(わけじゃないけど)いまの話がある程度の効果と信憑性があったと仮定して進行していきましょう。もうやぶれかぶれ。
『少女終末旅行』は一種のロードムービーとして観てます。決められた目的地もなく彼女たちが言うように「補給して旅をして」が繰り返される。そんな中軸がある。
「西を目指している」とか行き先が明示されているわけでもないが、ただただ直進を続ける。北へ行こう、ランララン
OPと本編とEDと、ほとんどが左への意識を訴え続けている。この統一感は正しい。前回のルールその1に則っていると言えよう。右を向いているカットもなくはないが、進行中のカメラの切り返しだったり混乱するようなものではない。言い訳くさいな、おい。
外に出られた瞬間は希望に満ちていたから右向きでもいいよね、みたいな。(苦しいぞ
そして。
西を目指しているわけでもないのに左に向けた進行方向について、ディレクションその2のルールを当てはめてみる。
右でも良かった進行方向を左向きに描いている理由や効果
進行方向を左にすることでネガティブな空気を画面に混ぜ、先行きの不透明さ/不安感を暗示させている。ゴールがいまひとつ想像できない。観ていて素直に安心できない。なにか悪いできごとがこの先に起こるんでは? そんな気持ちにさせられる。
もしも右側に進路をかまえていたら、私たちには本作が二人の冒険譚に映っていたのかもしれない。そうさせないためのマイナスの処置が左向きの車両なんだと思う。
ギャップという名の不均衡
ポストアポカリプスというジャンルでありながら、キュートなキャラクターと緩い掛け合い。
ポストアポカリプスというジャンルでありながら、多幸感も含んだOPとEDの楽曲と映像。
世界の大部分が崩壊したらしいが、彼女たちは悲しみの感情はひとつも浮かべない。痛がって泣いたりはするけど。
彼女たちは決して絶望していないのだが、左に立つカメラが、第四の壁が、崩壊した世界が彼女たちを絶望へ導こうとしている。
このギャップによるチグハグなケミストリーが本作を包む魅力になっているのだと私は考えている。球体の上に片足で立つような、アンバランスさと危うさが観客の目を離さない。
どんな締め方だ。
そんな感じで〈『少女終末旅行』で改めて考える「スクリーンディレクションの効果」Part 2〉でした。
おしまい。
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