このCMで来た方が多そう。
まあ、仕切り直して。
アニメ業界はあと何回、イマジナリーラインの話を繰り返すんでしょう。なんどめだパプリカ。
──と、プロに向かって偉そうな口を叩く私が、仮に、誰かに「イマジナリーラインとは何か」と説明をするならどういった物言いになるだろう。
こんなふうに講釈するかもしれません。
本記事では、イマジナリーラインを守って撮る意義・超えたときの影響や是非について、私の考えを提示したいと思います。
以下、イマジナリーラインのまなび、そのガイドライン。
- イマジナリーラインとは何か(省略して、IL)
- ILを越えると何が起こるのか
- ILを越えた画面の例(成立バージョン)
- ILを越えるのはダメだという主張について
このステップで書いていきます(プレゼンみたいな書き方は初めてなので、実現できるかわかりません)。
イマジナリーラインとは何か
想定線、180度ルール、イマジナリーライン……言い方はさまざまですが、示すものは同じです。
カメラの立ち位置を制限する目的で引かれた線こそがイマジナリーラインと呼ばれているモノの正体。
「(あるシーンの編集において)AのカットとBのカットをつなぐ場合は、どちらもこの線(イマジナリーライン)より向こうから撮ってはいけませんよ。ILを越えたカットを編集で繋ぐと画面のつながりが失われますよ」
という先代からの教えです。引用じゃないのに引用符を使うな。
もともとは観客が(カメラが)演者の向こう側に移動できない「舞台演劇」から発祥している概念とも言われていますね。
それはさておき、向かい合った2人の会話シーンをもとにILの機能性と重要性について考えましょう。
対面した2人を撮る。そしてILを引く
帰り道、2人のキャラクターが向かい合っています(顔だけ)。
こういった場合、キャラクターの立ち位置を繋ぐように一本の線を引くことが出来ます。
はい、引けました。これがイマジナリーライン(IL)です。サイドがわかりやすいよう赤と青で着色してますが、まとまった一本の線と考えてください。
「こんな線はアニメで見たことねえ」って方がいるかと思いますが、実際に画面に目に見えるかたちで現れるものではありません。あくまでも”想定線”なのです。パース線と同じく、画面の設計図の・ようなもの、と受け止めてほしいところですね。
ILは画面の設計図の一部
では、この想定線──イマジナリーラインは何のために引かれているのか。
それは、カメラが移動してよい範囲を定めるために引かれています。
しかしこれは注意喚起のようなもので、目的は別のところにあります。もう少し具体的に意味を追求すると、「編集時に、向こう側から撮ったものを混ぜてカットをつなげると、観客が状況を理解できずに混乱する事態を招きかねない。だからそれを避けるために、カメラの位置を制限して画面のベクトルを統一すること」という狙いがあります。
そしていま、カメラが撮影を始めました。この瞬間からILが機能します。ファーストカットがその後の基準になります。
”イマジナリーラインを守る””イマジナリーラインを越えない”というのは、赤い線の向こう側へのカメラの移動を制限することです。つまり青で塗ったエリア内の移動のみで撮影を行います。
一度こちらから撮り始めると、赤く塗った地面だけでなく、奥に見える家の塀や草垣の位置、さらにはその遥か向こうから撮ることも「イマジナリーラインを越えて」撮る行為になります。地球を一周したらどうなるんでしょう。
要はこんなふうに、ふたりのやりとりを撮る際には、カメラが動ける範囲について仮想の線引をして制限するわけです。
そして、画像フカン図の①から③にカメラが移動した場合、「イマジナリーラインを越えた」と表現します。これがポイントです。
カットのつながりは自然になり、画面の収まりが良い
再度、『ぼくたちは勉強ができない!』会話のシーン。
一連のカットは、すべてイマジナリーラインのこちら側から(ILを守って)撮られています。
足元が映っていませんが、想像で線が見えますよね? ね?
わんつーさんしー、こういうカメラの移動です。矢印はカメラ位置の移動。本編はFIXでした。
顔のアップが差し込まれていますが、ふたりの位置関係も把握しやすく「観づらいな」という感想は出にくいと思います。
「ふたりの立ち位置を整理できるのは、最初に引きの画が提示されていたからだ」
……という反論ももちろん無視できないのですが、
(顔アップのカットだけでも)顔の向きから話し相手がフレームの右にいるor左にいると推察できるのは、イマジナリーラインの制限を守って撮っているから
とも言えます。引用じゃないのに引用符を使うな。
セオリー・イズ・大切。
ILを守ると画面に調和が生まれる
ILを守った撮影の優位性は、人物の位置関係など画面の調和が保てることにあります。
視聴者は、意識的無意識的に追うべき方向というものをキャラクターの視線などから判断して映像を追っています。ILを越えたカットが間に入ってくると、誘導すべき方向に視聴者の視線が向かなかったり、空間把握の妨げになったりする可能性があります。
2.イマジナリーラインを超えると何が起こるのか
では続いて、ILを越えて撮影した場合──”イマジナリーラインの向こう側”からキャラクターを撮ると、画面上の構図はどう変化するのか見てみましょう。
わかりやすく言えば、カメラがイマジナリーラインを越えると”見た目”が反転します。「方位が反転する」と言った方がより本質に近づいているでしょうか。
リバースショットにILを越えたカットを混ぜる
通常、リバースショットというのはILを越えずに演者に向けたカメラを交互に切り替えていくので、視線の先に対話の相手がいる状態が続きます。
さきほどの①と③を繰り返すのがリバースショットですね。
三たび、『ぼくたちは勉強ができない!』会話のシーン。
上の指示(①→③)でキャラクターを撮ると
『ぼくたちは勉強ができない!』第3話より一部カットを抜き取ったもの
──となります。
2人は視線を合わせて向き合っているのだから、違和感ないですね。
厳密には切り返しではないので「リバースショット」と呼ぶのは語弊がありそうですが、ご容赦願う。
リバースショットやカットのつなぎの間にILを越えたカットを入れる
ちょっとカメラの位置を変えて、流れのなかでILを越えたらどうなるでしょう。
上の撮り方だと、カットのつながりは
3枚目 反転とトリミング加工しています(『ぼくたちは勉強ができない!』第3話より)
──こうなります。
このようにカットを繋げてしまうと、観客の意識には「2人は向かい合って話していたのではないのか? 第三者がふたりの右側に登場したのかしら?」といった疑念/混乱が生じてしまう。
更に良くないことに、3枚目のカットは理珠の視線が画面右に向いているので、つられて観客の注意も右に流れていく。しかし、その後の展開において観客の意識を右にひきつける意味はなく(何故なら単なるミスだから)、単純に消化不良感だけが残り、マイナスポイントである。
ILを越えると画面の調和が歪む
ILを守っていたのと反対に、見た目が反転すると画面の調和は少なからず歪んだものになります。
ここまでの検証により、イマジナリーラインとカメラ位置については
と言えます。
この分断現象が与える観客への影響は良くも悪くも予想ができず、まったく気にならない人もいれば、視聴に集中できなくなる人も当然存在します。
最大公約数的な視聴を目指すうえでは、「『イマジナリーラインを越えない』に超したことはない」という主張がたびたび挙がるのも頷けます。
イマジナリーラインを越えるのは「絶対悪」ではない
しかし、歪みの検知や認識には個人差もありますし、「ラインを越えるイコール歪む」と簡単に言いきれるものではありません。ILを越えたと意識させないカットのつなぎ方があったり、全体像が見渡せる状態ならILを越えても歪みすら発生しません。
個人的な見解なのですが、「ILを越えるべきでないカットの繋ぎ方」はかなり限定的な状態であると主張したい。不用意なIL越えには良いとこなしですが、そこはやっぱり「一概に言えない」の気持ちもあったりするのです。
リスクを取って面白い画面を作る選択肢もあるはずだと。
じゃあ、型を破ってみよう。
3.イマジナリーラインを超えるのはダメだという主張について
イマジナリーラインの性質を踏まえたうえで、観客のスムーズな視聴を優先するのか、印象づけるためのアクを作るのか、制作者としての立ち位置が分かれるところではないでしょうか。
IL遵守派の主張の大きなところは「ILを超えると混乱を招くから」だと思うんです。いや、「混乱を招くような下手なIL越えをするな」かもしれない。こっちのほうが親切心があっていいですね。
で、返す意見として
- 混乱の危険性を軽減させながらの越えも可能である
- 混乱を意図しての越えはアリである
と私はふたつの意見があります。
引きの画で位置関係ごとひっくり返すIL越え
まずはひとつめ。
引きの画を使って位置関係の混乱を軽減させる。
リバースショットで例示したような入れ替わったように見える画面というのは、画面内の情報不足が原因です。対話相手がフレームに写っていないので、どこにいるかわからない・視線の先にいるようだが判然としない。しかし、両者がフレームのなかに収まっていれば、位置関係がごっちゃになることはありえません(多少、画面に違和感を覚えるかもしれませんが)。
引きの画でILを跨いだカット繋ぎの例として、『Dr.STONE』を見てみましょう、
『Dr.STONE』、引きの画とイマジナリーライン
『Dr.STONE』第16話。千空とルリが、石神村の起源について会話をするシーンでILを越えたカット繋ぎがあったので、そこからチェック。
向き合った状態のふたり。見た目は千空が右でルリが左にいます。これを「カット①」としましょう。カメラもイマジナリーラインのこっち側にいます(もちろん線は見えません)。
ご覧のように、次のカットで千空が左でルリが右にと、見た目上の立ち位置が変化します。これを「カット②」とします。
ここまで見守るように優しく読んでもらえた方々なら、何が起こったのかと疑問になることはないでしょう。カットAからカットBの間でカメラはイマジナリーラインを越えて、「向こう側」からふたりを撮っていたのです。
補足:カメラの移動経路
カメラ移動を俯瞰にするとこんな感じ。
カット①は赤い線の上の①から、カット②ではイマジナリーラインを跨いで②の位置から千空とルリ、集まった仲間を撮っています。
立ち位置が変わったと書きましたが、より正確に表現するなら世界のベクトルが変わった、といったところでしょうか。こちらのほうが重要。
確かに、左右や前後の方向が変わってしまうので、画面に違和感が一切ないとは言いませんが、引きで全体のバランスを保っていれば、位置関係がこじれたりはしない。しないよな?
なんとも屁理屈みたいですが、これが支障の少ないILの越え方の作法です。
意図した混乱に酔いしれる
いっぽう、故意的に違和感を画面に取り込む演出の気持ちよさも注目すべきです。
イマジナリーラインを超えることによって、画面には違和感が生じます。物理的な理を捻じ曲げているわけですからね。その違和感、ノイズあるいはコンフュージョンの発生を好意的に捉えると「画面に違和感を取り込んだ」とも言えますし、批判的に言えば混乱の誘発、単なるミスです。
しかし、エイゼンシュテインが『戦艦ポチョムキン』を撮ってもうすぐ100年にもなりますし、積み上げたセオリーを崩して新たな発見を探すのも一興です。
型を知ってこその型破り、型を知らなきゃカタナシ。
そんな言葉もあるように、創作の基本はスクラップ・アンド・ビルド。
いわば音楽における不協和音の採用と似たようなもので、「”キモチワルイ”が気持ちいい」の領域こそが醍醐味。確かに正しくないのかもしれない。行儀が良くないのかもしれない。合理的とは程遠いのかもしれない。しかし、良し悪しも好き嫌いも観客の感性に委ねられるべきものだと私は思います。
総括:意図があるならイマジナリーラインを越えても良し
実例をいくつか探していましたが、時間を要するので記事を分割します。仕組みは提示できたと思うので、あとはまあ粗略になってもよかろう、どうせ最後まで読まれないだろうというぬるい気持ち。
イマジナリーラインを越えて反転させる演出なんかをまとめたもの。
おしまい。
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