カットの繋がりとは面白いもんで……(落語っぽい入り)
作中で具体的な指摘や明言や説明がなくても、前後のカットの並びから「いままでの話は誰のことを言っていたのか」といったことを観客は察知することができます。
わかりやすい例でいうと、主人公の男の子と、その女友達がこんな会話をしている一幕。
女友達「その鈍感さ、ほんと似た者同士ね」
主人公「え!? どういうこと?」
するとカットが変わって、遠い場所でヒロインがくしゃみをするだけのアクションが差し込まれ、再び主人公と女友達二人のカットに戻る。
『かぐや様は告らせたい-ウルトラロマンティック-』第2話より
とまあこんな感じ。
似た者同士の片割れに一度カットを飛ばすことにより、「主人公と誰が似ているのか」ということが個人名を用いて明言しないまま(キャラクターのセリフに乗せることなく)、観客に情報を提示することができます。
「台詞に乗せないで済む」というのは、肥えたアニメファンの視線から来るものかもしれません(映像としてのスマートさを獲得できる、みたいな)。
むしろより重要で効果的なのは、キャラクターが把握している情報と観客が把握している情報に差をつけられる点。このコントロールが観客の関心を引っ張っていくうえで非常に大事。
視聴者だけが知っている「意中の人」(『舞妓さんちのまかないさん』第24話より)
『舞妓さんちのまかないさん』第24話は、舞妓さんが身につけるかんざしの「白いハト」にまつわる挿話でした。意中の人から「目を入れてもらう(色を塗ってもらう)」というシキタリをテーマに描かれました。すーちゃんの目がいつにも増して丸っこくて、めちゃくちゃ可愛かったです。
それはさておき。
まだ目を入れてもらっていなくて気落ちしたすーちゃんは、1階でばったり会ったキヨちゃんと一緒にかき餅を作ります。
美味しいかき餅が出来ました(※かなり省略しています)
そのあと、姉さん方は「いつの間にやら、百はな(すーちゃんのこと)の白いハトに目が入ってるで? 百はなの意中の人って誰なんや」とヒソヒソ話をします。
そこに、出来上がったかき餅を箱に詰めているキヨちゃんのカットが繋がれます。
この繋いだカットこそが、「百はなのハトに目を入れたのは誰なのか」という答え合わせになります。
『交渉人』と人物紹介のカット繋ぎ
『交渉人』では、優秀なネゴシエーターであるクリス・セイビアンを現場に要請するときにこの繋ぎ方が使われています。
映画が始まって実に40分ごろ。主人公であるサミュエル・ジャクソンがビルに立てこもり、「クリス・セイビアンを呼べ。彼以外とは話をしない」と言い放ちます。
そして、対策本部が「クリス・セイビアンって誰?」「いますぐ捜し出せ」などとやり取りをしていると、じんわりとカット(というよりもシーン)が変わり、いままさにドアの向こうの相手を説得している最中の男性が映し出されます。
こちらも誰かを説得中、という流れの面白さはさておき、この絵を見た瞬間に観客の頭のなかでは「クリス・セイビアン=ケヴィン・スペイシー(画面に映っている男性)」という式が立ち上がります。
このように、人物の名前が提示される→カットが変わる→その人物が何かをしている最中につなげる、というのは人物紹介シークエンスでもかなり重宝・浸透されていると思います。『アルマゲドン』や『オーシャンズ11』のメンバー招集シーンがぱっと思い出されますね。古い。
カットの繋ぎによる連続性
クレショフ効果というよりもモンタージュ理論のなかのひとつだと思うのですが、そんな用語を知らなくても、肌感覚で感じ取ることが出来ると思います。そして、この法則を無視すると観客は事実を読み違えます。
たとえば「誰が百はなのハトに目を入れたんや?」のあとにお母さんの絵が入ると、目を入れたのはお母さんであるように見えます。
「クリス・セイビアンに繋げ」と言ったあとに、全然関係ないピザ屋の電話が鳴る、みたいなカットを入れるとおかしくなります。それはそれで「ハズシ」として面白くなる可能性もありますが。
連続性を活かすからミスリードが通用する
特にミステリーでは「ミスリード」という手法が醍醐味のひとつとして認められています。こういった観客の先入観を利用した、容疑者を匂わせる演出はよく見かけます。
「ハズシ」が巧妙だった例をひとつ挙げると、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(原作者:伊坂幸太郎)のシーンの繋ぎ方です。ちょっとネタバレ要素あり。
『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の錯覚
「私の弟とかどう? いい男だと思うよ」
お客さんであるカスミさん(MEGUMI)が、いい出逢いがないと言う美容師・美奈子(貫地谷しほり)に自分の弟の話をします。
その紹介からマッチングが実現するのかどうかわからないまま、シーンはポンと変わって、男性の後ろ姿が映ります。
この男性が三浦春馬なんですけど、どうやら友人宅を訪ねているようで、友人の娘からは「おっ、佐藤じゃん」などと迎えられます。
ここで観客は、十数秒前のカスミと美奈子の会話が記憶に残っているので、カスミ・弟・佐藤という情報を元に、「さっき言っていた”弟”がこの三浦春馬で、カスミさんとは兄弟の関係にあるのか(という認識でいいのだな)」という認識を持ちます。カスミさんの名字は佐藤というのか、といった認識も持つでしょう。
しかし、これは数分後にひっくり返されます。これ自体は大オチではないので、まあ勘弁してください。
このミスリードを誘うカットの(シーンの)繋ぎ方は、今泉監督の演出というよりは伊坂節を映像化すると自然とこうなったのではないかと受け止めております。
スプラッターものでは次の標的がシーンの頭を飾る
スプラッターものでは、次の獲物が誰であるか、という暗示や匂わせでこういった繋ぎ方もあります。
実際にそうなるかどうかは、半々ぐらいでしょうか。
カットの連続性って面白いですね
とまあ、カットの繋ぎ方によって台詞に頼らない物語の紡ぎ方があるなあと、そんなことを思ったりしました。見切り発車、ネタが不十分。
そんな感じで〈カットの連続性と繋ぎ方を考える〉でした。
おしまい。
コメント,ご意見など (中傷発言はNO)