最近嬉しく感じたことについて、3つほど。
夏川椎菜のアルバム『コンポジット』のなかの『サメルマデ』を聴いたら、誰が作曲したのかがわかりました。クレジットを見ずとも、というやつです。
作曲当てチャレンジにどうぞ。音が出ます。
個人的にこの方のワークスを日頃追っているわけでもないし、今回のアルバム発表に際して参加作家陣の情報も仕入れずの状態。それでもピンとくるものがありました。クセがありますから。
あんまり引き伸ばしてもしょうがないですし、答え合わせにいきましょう。
曲を聴いただけで作曲者がわかるときはかなり嬉しい
はい、『サメルマデ』の作曲(と作詞)はヤギヌマカナでした。ヤギヌマらしい曲を夏川椎菜がヤギヌマっぽく歌唱しているのが『サメルマデ』です。
Spotifyで聴いていたので「ソングライター:ヤギヌマカナ」という不十分なデータ表記だったわけですが、編曲者までは見透しができなかったにしろ、ヤギヌマカナが作曲をしたのは正しかった。私の直感は間違っていなかった。
今回のアルバムに関しては、「ああ、田淵楽曲で始めて田淵楽曲で締めるんだ。なかなかチャレンジというかだっこにおんぶというか、不思議アルバムになりそうだ」くらいの前知識だけ。それでも、楽曲を聴けば、「ヤギヌマカナ提供曲」だと確信を持てた。この感覚が嬉しかったのです。
花澤香菜のアルバムにおける似たような話
もうほとんど似たような話で恐縮ですが、つい最近になって花澤香菜の『おとな人間』を聴いたんですよ(2019年発表の『ココベース』に収録)。
そしたら「これ、橋本絵莉子が曲を書いてるな!」と確信を持って(以下略
自画自賛ついでに強調しておくと、アーティスト同士の関係性というか提供するに至る地盤(?)みたいなものが最初から知識としてあれば、初聴ジャッジにも自信が持てますが、そういう印象も持ってなかったわけで。
「橋本絵莉子のメロディっぽい匂いはプンプンするが、はたして花澤香菜に楽曲提供をするだろうか。そんなことが実現するだろうか」みたいな迷いが出たりする。
これをアニメで例えるならば、ボンズの作品で中村豊の作画かなって思うとか、エイトビットの作品で江畑諒真の作画かなっていうのは、まあ「あり得る」じゃないですか。
「いやあ、どう見ても江畑諒真のアクションだが、これMAPPAの作品だしなあ、なんか迷っちゃうなあ」こういう感じです。MAPPAで参加したことあるかもしれないが。
遠いからこそ感じ取れたときの嬉しさも大きい
そんなわけで、いまとなってはという条件付きですが、夏川椎菜の楽曲を聴いたときに「これは田淵だな」というのは嬉しくないわけではないにしろ、快感ドーパミンとしては分泌量が少なくなりがちですよね。
これは決して、田淵楽曲が悪いとか、インパクトが薄くなってきていると言ってるんじゃないですよ。あくまで、受け手である私のなかの話(田淵智也楽曲でいえば『清濁合わせていただくにゃー』にはかなり躁鬱のベクトルに振り回されました。いわゆる、楽器を折りたくなった、とかそんな感じの感情の掻き立てられ方でしたね)。
やっぱりdance verがいいね。
同様に、花澤香菜のアルバムにおける北川勝利楽曲というものも、感づいてもまあ予想の範疇に収まってしまうというか、ストラックアウトで2枚抜きするくらいのやったッた感や気持ちよさはない。慣れの怖さなのか、なんなのか。難しいですね。このピアノは誰だ? という別の楽しさは依然あり。
映画を観ていたら原作者がわかった話
最後にもうひとつ同じ話。
今泉力哉監督の『アイネクライネナハトムジーク』を観ている最中に、話のつなぎ方(物語の展開と構成ですか)が伊坂幸太郎の小説みたいだ、と思ったんですよ。
「というか、これ、伊坂幸太郎の小説が原作なんじゃないの?」と疑問が湧いたのもほぼ同時で、そこからは絶対そうだわとかなんとか思いながら鑑賞。鑑賞後にエンドロールを確認したら……。顛末はあえて記す必要もないでしょう。
『アイネクライネナハトムジーク』、お休みの日におすすめします。好きな映画が増えました。
まあこんな感じで、クレジットを見ずに(クレジットに頼らずに)その人の作家性なるものを嗅ぎ分けられるようになった自分の成長が少し頼もしいなと、柄にもなく思ったりした次第です。
ビバ眼高手低。
そんな感じで〈クレジットには映らない美しさがあるかな〉でした。
おしまい。
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