何度かここでも話に出してるスクリーンディレクションについて。
簡単に説明すると、
ネガティブな要素・敵の行動・逃避などは画面左向きに←
それぞれの方に向かわせることで視線の流れをつくり、画面を整理する映像演出。
(主に目線・体の向き・進行方向などから、いまどちら向きなのか? を判断します)
わかりやすいところでいうと、マリオとクッパの対峙構造などは模範的な配置で、善が「右」を向いて悪が「左」を向いているので画面に調和がほどよく生まれている(善が左に配置されていて、悪が右に配置されているとも言えます)。
-『キッズ・リターン』の前半、通学する二人。
通学は往路とも捉えられるので、右に進む撮り方がしっくりくる。
反対に、ツルネ第1話の鳴宮 湊と自転車。
湊は弓道部志望のみんなに早気がばれてしまい、弓道部を早々にあとにする(早○がバレるのはさみしいもんな)。
ここは逃避のシークエンスなので、ネガティブな働きを持つ左向きの移動。まあ帰路がそっちなんだからしょうがねえだろって意見もあるでしょうが。
あとはサザエさんEDとかもそうですね。
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こんな感じで、スクリーンディレクションというのは、感情の起きやすい場面や、敵味方の軍勢がはげしく交錯する場面などで向きを揃えた撮影を行うと、視聴者はすんなりと状況の理解(または予想/暗示)ができますよ、というもの。
撮影/編集のセオリーの一種ですから、絶対遵守の”ルール”ではなく、結果、面白くなっていればどう撮ろうが問題なしだと思ってます。
もちろん、ファイナルファンタジーシリーズの戦闘とかウルトラマンの決闘の立ち位置とか、左向きが正位置のような例外もたくさんありますし、ずっと同じ方向じゃ画にならないから工夫して逆の向きを仕込んだりもします。
要はこういうセオリーが映像にはあるんだよってのだけ頭に入れましてですね、そういったセオリーを抑えつつ『ツルネ -風舞高校弓道部-』のEDを観てみましょう。
『ツルネ』のEDとスクリーンディレクション
タイトルの『オレンジ色』が意味するのは(夕焼けと)沈んでいく太陽で、画面もオレンジ色がかかる夕暮れ時、「帰り道」なんですよ。
鳴宮 湊や竹早 静弥が進む方向が左なので、家に帰っているという状況がスッと頭に入ってくる。彼らは悪人ではないので、左への進行は帰還になる。これが悪人だと左向きは侵攻になる。これがスクリーンディレクションの力。
ここでの「家」は立地的な意味合いだけじゃなくて、精神的なホーム──自分の帰る場所という含みもあり。
だからこそ彼らは左に歩く。笑ったりつまんなそうにしながら。
同じ道のはずなのに一人になった湊の姿が寂しい。
そして、帰る道程のさきに待っていたのが滝川さん。微笑み合う二人。家のような親代わりのような温かい信頼をミナトが抱いているのがうかがえる。
スクリーンディレクションの話おしまい。
分岐と信号
-矢印式信号機のカット。「矢」のジョークなのかなとも思うけれど、見切れている押しボタンの標識と赤信号が意味するところの「停滞」は、湊に、自分の進む道を選択するのを待っているようにも見える。ボタンを押さないと青にはならないぞと。
矢からスポークへのマッチカット
ちょっとgifがガビってます/『ツルネ -風舞高校弓道部-』EDより
まず別カットで自転車を出しておいて、そのあとに矢からスポークへのマッチカット(オーバーラップ)。
スポークっていうのはホイールを支えてる細長い金属棒で、ひとつ外れたりするともうホイールごと交換しないといけないくらい繊細なパーツで(自転車屋にそう言われたことがあったが、もしかするとふっかけられたのかもしれない)。
しかもどれも同じように見えて実はホイールごとに合う合わないがサイズや形状の違いからあったりして、これって作中で言ってた弓にも通ずる部分だなあ、と思ったり。
そして、繊細さの表現と同時に、ひとつが折れると輪〈わ〉全体に関わる→ワンフォーオール・オールフォーワンの精神→チームっていいよね! というメッセージがビンビン伝わることろでもあります。
そのあとシルエットになって、バックの弓懸と相まってホイールが牛車みたいに見えるのはなにか意味があるのかもしれない。地域つながりか?
おしまい。
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