いやあ、最高でした。
すぐに「サイコー」って形容する人をあんまり信用しないんですよ私。阿部慎之介が勝利インタビューでいつも「最高です!」っていうじゃないですか。もう軽いな~って思ってたんです。カーボンかよ。だって最も高いと書いて最高ですよ。毎度更新していかないと理に合わないのにそんな言葉吐いちゃって。全然リアルじゃない。
だから私はここぞ、というタイミングで本当に意味のある「最高だ」を吐いていきたいと思います。『耳をすませば』で聖司が雫に言った「大好きだ」くらいのテンションと誠意を持って。
一期から二期まで見届けられて、ほんと良かった。
もうユーフォニアムについて記事を書くこともないだろうなと思うと寂しい。私も寂しい。

一期の第1回放送後に書いた記事です。タイトルも変えてません。この記事に繋がるようなタイトルを書いた自分を褒めたい。
書き忘れていた演出の話
前回の記事で漏れていた部分があったのでまずそっちを片付けよう。
第6回、文化祭の回。
今作はあまりジャンプカットが見られないなあ、なんて以前何処かで言ってましたが、ちょこっとだけありましたね。お客がこないから宣伝しようと廊下でプチ組体操を始める場面。
演出で魅せる用途の場合なら、ジャンプカットは三回か四回くらい連続に切って貼ってがちょうどいい塩梅なのかな。五回以上だとしつこさ(不必要さ)が出てくるし、二回だと読み取りにくくって編集ミスと勘違いされたりしかねない、なんて危惧が少し。あと細かにカメラの位置も動かしているような手を加えていること(フレーミングのサイズが変わっている)によって、フィルムを切り取った感触が濃く出せる。
場面は変わってあすかのクラスの出し物
久美子とあすか先輩の会話シーンでのリヴィールフレーム。
あすかの髪のはためきが画面を覆って、次のカットでは久美子の目線のアングルが撮れる位置にカメラが移動している。画面を一度覆っているのでリヴィールフレームといえるし、あすかの黒髪が黒系帽子へと繋がっているのでマッチカットとも位置づけできるかもしれない。
『響け!ユーフォニアム2』
第六回「あめふりコンダクター」脚本:花田十輝 絵コンテ・演出:川浪栄作
というのも、こないだギズモード・ジャパン他でマッチカットをまとめた動画が広まっていて拝見したものの、「これは違うんじゃない?」という疑問がやはり出た。あくまで私のなかで、ですが。マッチカットの定義の固定化を望む。
たとえば第12回での歩行者を使ったマッチカット。仮に歩行者の足が完全に画面を覆っていたならリヴィールフレームたりえるんだけど、キーとなる「覆う」要素がないため、これは「マッチカット」と呼ぶのが正解。
ややこしいですね。
これがリヴィールフレーム
何を媒体としたリヴィールフレームかによって、歩行者リヴィール・柱リヴィール・花びらリヴィール・新聞リヴィールなどなど呼称にバリエーションがある。かっちりと定められた技法名ではないと思うが、意味は通じるのでオッケーオッケー。
もっというと一期のOPはリヴィールのお手本だったりする。
演出や話数が行ったり来たりしてしまいました。しぃません。
「かおりって可愛いよね」の真意
第9話であすかの家に向かう途中、かおり先輩があすかのおニューの靴の紐を結び直してなにやら不穏な空気になりました。いきなり夕暮れの怪しげな影が強調された場面。
あすかはかおりのお節介に母親を図らずも重ねていたわけです。自分の善意は他人の幸福である、という絶対的価値観。断りもなく土足で自分の領域に”相手が喜ぶと思って”などの一方的な思想のものに蹂躙してくる傲慢さ。パターナリズムを通り越してこれは歪曲した自己愛なんではないかとすら思えてくるかおり先輩の”親切”には母親を重ねざるをえないでしょう。
なつ「言いすぎじゃね?」
ここであすかの「かおりって可愛いよね」に久美子は曖昧な頷きしか返さない(そもそも可愛いって相手を下に見てるように思えてならない。けどそれはまあいいや。
その後、部屋のなかであすかは母親の話を少しして、「(あの人のことは)嫌いじゃない」と云います。が、久美子は先程のかおりへの「可愛いよね」という発言と表情に久美子なりに感じていたものがあったわけで、あすかのイチロー的婉曲表現のパターンにも対応が効くようになっていた。だから二回目であるこのタイミングで「嫌いじゃないって言いましたけど……”嫌い”なんですよね?」と恐れながらも返すことができた。
やっぱりこの二人は通ずるものがあるんです。側(ガワ)の話として。
「子どもは親を選べない」という話を皮肉っているように、取ろうとしたクッキーを寸前で変更するあすか。
『響け!ユーフォニアム2』
第9回「ひびけ!ユーフォニアム」脚本:花田十輝 絵コンテ・演出:石立太一
じゃあ最終回もとい総括的メモを──。
『響け!ユーフォニアム2』最終回を観た
于武陵(う ぶりょう)は『勧酒』をこう結んだ──。
なつ「大丈夫? この書き出し」
──「人 生 足 別 離」……と。
そして井伏鱒二の名意訳は皆の知るところの「さよならだけが人生さ」でありますが、出逢いがあれば別れがあるのは悲しいかなこの世の真理だといつも思う。生者必滅会者定離なんて言葉もあるくらいだし。
優子パイセンが送別会で「先輩から受け継いだものを私達も下の世代に受け継いでいく」なんて挨拶があったけども、終わったものは何があろうと”終わったもの”でしかなくて、”受け継ごうとしたもの”と”受け継がせようとしたもの”が、なんとなーくあそこにあるだけなんだと私は思ってたりもしてて。ちょっとセンチでニヒリズムな考えかもしれないけど。
普段は気に留めないけれど、私たちはあらゆる有限のなかに生きている。「有限」とは限りがあるということ。限り・終点に着いて、終焉を迎えて、私達はたびたび次にどうするかと岐路に立たされる。そして分かれ道なんてないという残酷で非情な状況に迫られる。あるのは別れの道だけだったりして悲しい。
放送が終わってみると、『響け!ユーフォニアム(2)』は別れの物語だったように思う。滝先生と奥さん、家族とお姉ちゃん、後輩と先輩、久美子とあすか、部活と葵、夢と金……色々なものが離れていくさまが描かれた、別れと向き合う物語だった。
久美子が本当に主人公をしていた。素直に主人公に感情移入できるのはいいですね。いい。
別れが惜しいな、と思っていたバイト先の先輩のこと思い出しました。「今日で一緒にシフト入るの最後ですねー」なんて会話もしたなあ。ああー、やだやだ。
もう8年ほど会ってないし連絡もしてないしこれからも会わないと思いますが、また連絡でもしてみようかなんて思わせるこのアニメのなんたるなんたる(とか言いつつ連絡はどうせしないだろう。それが私という人間なので)
もうこの一枚だけでまたこみ上げてくるものがある。
バンドとは本来〈絆〉という意味からきています。この〈絆〉がまたやっかいな縁のものにあるというか不思議なもので、時間や環境をときにかんたんに超越してしまう。その存在価値はクラスメイトよりも親よりも上位にきてしまう。恋に似てるね。
肉親とかご近所とかクラスとか部活とかそういう枠・囲いとは一切関係ないところ(枠を超えて、というのはラストシーンの久美子の言葉「先輩だし、同じパートだから……」によって否定されます)で芽生える可視化できない何か特別な気持ち──、つまりは絆のことなんだけど、そういったものが久美子のなかに生まれ、またあすかも密かに感じていた。ゆえに、久美子の「ずっと苦手でした」の発言が結論だと思えてあすか先輩は一度下を向いてしまうのだ。でもどこまでも気丈に振る舞うんだなあ田中あすかは。めんどくさいなあ人間てのは。
なつ「気持ちが入りすぎて文体がおかしいよ」
もうだめだ、ラストについては語れない。
まるで北野武が『BROTHER』が描いていたあの論理。論理というかテーマか。
だから『響け!』には全体にグリーンが散りばめられていたのかと推測。キタノブルーならぬイシハラグリーンてきな狙いが?
散りばめた落ち着きの緑
今作はほんとに緑系の配色が多くて、一分に1回は緑を挿すみたいな状態だった。
部屋のサボテンにカーテン。スマートフォン、サファイア川島のヘアピン、エプロン、楽譜カバー、通学電車の吊革・シート、普段着のTシャツ、イヤホン、久美子の瞳ハイライト、三年のスカーフ、音楽室の絨毯エトセトラ。葉っぱなどの基本的に緑色のものを除くデザインによれば別の色で構わない部分が緑になっているのが非常に多い。
「対」が暗示する「閉じ」
最後のカットが「響け!ユーフォニアム」の文字とホワイトアウトだったけれど、これは第1回の最初のカットが「Sound!Euphonium」のホワイトインだったものと対になっていて、この物語が完全に閉じられたという意味合いになっている。
送別会演奏
トランペットソロに入る前にかおり先輩と麗奈の目が合うのがいい。麗奈なりの餞ですね。運指をなぞるかおり先輩の晴れやかな顔もいい。そっからソロ争奪オーディションのあのときに戻るのを入り口に回想が始まる。これを手抜きとか言っちゃうやつはもう、ちょっと心配するぞ私。
いろんなことがあったなあ……っていう大事な時間でしょ!? コメント見ながら実況とかそんなんしてる場合じゃ無いでしょ?
というかこんな振り返りのテキストすらはっきりいって無粋!
こんな名作に対しては「考えるな、感じろ!」ですよ。
それで良いんですよ。私が感じた気持ちは私だけのもの。
おしまい。
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