この作品たったいま大好きになりました。(前フリ
もう最終回まで視聴してしまったので、週刊更新っぽく感想するのもなんか違うなー、というか、先を知ってしまったぶん、書くことに対する熱量がいまいち発揮できなくてですね……。
ホントは観たあとすぐに筆で起こしたかったA選抜オーデ回とトランペットのソロパートを巡っての再オーデ回。
非常に楽しみつつもブログから離れていたのはいつものごとく忙しかった(名古屋と東京に行ってました)のと、移動時間の隙間を縫って原作の小説を読んでいた背景がありまして。
すごいですよ原作本。いまってカバーと同じサイズの帯まであるんですよ!
原作イラストレーターの立場がねえなあ、とかなんとか。
おみあげ代わりの浅草の写真をどうぞ。
我ながら上手く撮れたと思います。加工なしですから。
ああ、私の数週間を振り返ってしまいましたね。失敬失敬。
原作からの変更点もろもろ
さて、原作とアニメ版『響け!ユーフォニアム』の違いについて少し触れましょう。 私はまだ二巻を読み終えたところなのでその範囲内の情報になりますが。アニメ一期で描かれた範囲は京都府吹奏楽コンクールが終わるまで、つまり一巻の最後と合わさります。
口調、言語
舞台が京都なのでキャラクターはみな京都弁がデフォルトになっています。久美子(とその家族)だけは小学生のときに京都に移ってきたので標準語が抜けないまま、となっていますが、しかしね、文体で方言っていうのは読んでいてなんともきついものがありますね。舞城王太郎とかは平気だったのに。
キャラクターのひとりに関西弁キャラがいる場合(『テニスの王子様』とか『てーきゅう!』)と違って、ほぼ全員がじゃりン子チエなみにこってりしてると違和感がすごいありました。あまりそういうものに触れてなかったからでしょうが。私自身、いまも大阪に住んでますが、それでも最初の受け入れ難さは異常なレベルでした。
プロローグとして中学のコンクール結果発表の場面から始まるんですが、いきなり高坂麗奈が「アタシ、めっちゃ悔しいねん」とか言いますからね。もう倖田來未が脳内再生されちゃってアニメからイメージが崩れていく私でした。まあ、一巻の半分くらいで慣れちゃうんですけどね。
オーディションのA組とB組
そもそも葉月は初心者なのでオーデに参加できずB行きになってます。アニメでは「あたし落ちちゃった」みたいなさらっとコミカルなシーンがあったので一応オーデは受けたんでしょう。
で、B組も地方でコンクールに出場するんですが、アニメではAチームに濃いめに照準を合わせる都合からそっちのお話はなくしてます。
塚本秀一について
久美子と同じマンションに住んでます。アニメ版ではそんな感じはなかったですね。
あと彼の乗り込んでくる駅の法則がよくわからなかった。
【2017/1/2追記】
二期では同マンションに住んでいるのがわかる。駅云々は寄り道とかそのような理由だったのでしょう
【追記終わり】
原作ではやや唐突に思えた葉月の恋心もアニメではちらちらと絡みの場面を用意してわかりやすくなってました。決して惚れっぽい軽い女に見えない配慮、いいですね。
ソロオーデの申し出
原作ではコンサート前日、コンサート会場でのゲネプロ中にかおり先輩が自ら申し出ます。
これはいただけないなーと思いました。ナイス改変。
原作の要約。
かおり「先生、仕切り直ししてください」
滝「いや、でもトランペットみんなを見る時間とかありませんし」
優子「わたしは辞退しますから(←そもそも力不足なんですが)」
ペットA子「わたしも」
ペットB子「わたしも」
私「じゃあ……、おれも」
滝「しょうがないですね……じゃあ、いまから中世古さんと高坂さん
のふたりで審査をやり直します。それでいいですね?」
かおり「はい!」
れいな「…………」
いや、ほんとにこんな感じの流れですよ。ここは変更して良かった点ですね。
アニメオリジナルの成分
あとは麗奈と久美子があんなにイチャイチャはしてないとか「れいな呼び」は県祭り以前からだとか、県祭りでのセッションもアニオリだったりするし、滝先生のよくわからない遅刻キャラ設定とか、久美子の「上手くなりたい×12」も原作からけっこう味付けされたものだったなとか。このシーン、『オトナ帝国』のオマージュだと思うんだけど……。
ソロのオーディションを自分なりに脚色するなら
ソロパート再オーディションのときは原作未読状態で、演奏の順番とオーディションの方式なんかを想像してたんですよ。
「演者が見えちゃうと余計なフィルターがかかって審査に影響するかもしれないからブラインドでやるんだろうか」
とか、盛り上がりを狙い順番をどうするかとか。
順列と結果の組み合わせは4パターンで、
- れいな→かおり ◎れいな
- れいな→かおり ◎かおり
- かおり→れいな ◎れいな
- かおり→れいな ◎かおり
まあ順当に麗奈がそのままソロ昇格なんだろうとは思ってました。
「じゃあ、上の1か3のどちらかの順番になるだろう。どっちがいいか、どっちがドラマチックでドラスティックか」と。
昨今はどうも3が主流というか、キャッチーでありベタでもあるんですよね。先攻は負けフラグなんてことも言われてたり。
先にそれなりにいいものを比較対象として見せて、あとが本意気でブッ超えしてくるパターン。いわばテレフォンショッピングのパターン。それだけ説得力が認められている手法です。悪かない。悪かないんですがね……。
なつ「いつもの『俺くらいになると』?」
ああ、やっぱりそうくるかー、となるんですよ。
”物語として作られたもの”というちょっとメタい目線を持つと、「これは舞台装置である」「彼はこの言葉を喋らせられている」とか痛々しい病的な発想を思いつくんですよ。作者じゃないくせに作者目線で見ようとする。ええ、そっとしておいてください。
結局、順当に3のパターンでした。でも1のほうでも良かったな、とも思ってたり。
1だとどういう流れになるかというと、
麗奈がまず吹く。圧巻の上手さでみんな驚嘆する。
リボン先輩も「まあ……うまいんじゃない?」みたいな。
次にかおり先輩が吹く。
リボン「あれ?何も感じない……」
とまあ、ここにNTR的な嗜好と美徳が溢れんばかりに滲み出(ry
ちなみに、「原作がそうなんだからしょうがない」的なのは京アニではあまり通じない。アニオリ改変もボンボン放り込む社風なので、アレンジもトータルで京アニへの評価で問題ないかと。このアニメも例外でなく結構原作との差異がある。
色んなアニメを観てきましたが原作に改めて手を伸ばすというのがあまりないので、今回アニメと原作本の両方に触れたことにより脚本の役割が少し見えてきた気がします。
新しい京アニを垣間見た
京アニの演出、と言われてぱっと思いつくのはやっぱりジャンプカットじゃないでしょうか。演出っていうか技法っていうか、まあ同じか。
ゴダールの代名詞とも言われているジャンプカット。
ジャン=リュック・ゴダール……『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』『中国女』などで有名な監督。え、ピンと来ない? そうすか。
ちなみに「きぐるい」じゃなくて「きちがい」が正しい読み方です。近年はPC的な配慮から「キグルイ読み」する場合もあるとか(にわかが読み間違えたんじゃないの?
これが日本にも当然流れてきて、邦画でもたまに見かけるのです。
大林宣彦監督『青春デンデケデケデケ』とか岩井俊二監督『花とアリス』とか。
もとはワンカットで撮ったシーンを編集作業で切ることにより、一味違ったスピード感が出せるんです。実写の場合は編集で切り貼りしますが、アニメは原則として不要なシーン(使わないシーン)は描かないが基本ですから、あらかじめ残す部分を計算して原画を描いていく。
京アニ作品郡に限らず一回は観たことあると思います。
もう少し詳しく書いた記事を置いておきます。
そんな名物演出は今回抑え意味。代わりにピン送りが顕著でした。
どんだけ被写界深度の浅いカメラで撮ったんだー!ってなりますよ。
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