お早うございます。
なつ「もう本日公開日なんですけど。前前前夜? おととい的な意味ですよね」
時間と納期を守れないダメ人間なんです。許してヒヤシンス。
期待がこみ上げてくるんですが、この感情をどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか──
まずは私のなかの新海誠ブレイクスルー的な話
私が新海誠というクリエイターを認識したのは、『秒速5センチメートル』が公開になった翌年のクリスマスでした。ちょっと記憶がおぼろげですが、クリスマス前に2ちゃんねるで『クリスマスに観たい映画』のスレかなんかで見かけたのが確か最初。2008年になるのかな。
そりゃぐっさぁーと来ました。
『秒速5センチメートル』
3部構成で語られる、遠野貴樹と篠原明里の物語。くらいしか言えない。
最初に観た新海作品なので「画が綺麗」ばっかり言ってましたね。「背景ヤバイ。スミア眩しい」ばっか言ってましたね。
男性は”名前を変えて保存タイプ”、女性は”上書き保存タイプ”なんて恋愛へのスタンスがどうとか、BADENDしかかけない人だとかよく語られますが、観る人にとっちゃあ「まあ、(人生)そういうもんだよな……」といったある種の諦観の気持ちよさもあって。井伏鱒二的な。
整合性とは別の意味合いとしてのリアリティを持っているというのか。
創作物はその名のとおりフィクションなんだけど、あまりフィクションを感じさせない。もっと身近な、なんというんですかね。あるある、みたいな。あったあった、みたいな。
人生経験がモノを言うっていうと偉そうだけど、やっぱり負けた奴の気持ちは負けた奴にしかわかんねえよ、と。そういう気持ち。でも実際は経験していないがゆえに余計に想像しているのかも──とも思う。つまり、どっちもなんだよ!!ってこと。
桜花抄で明里が「貴樹くんはきっと大丈夫だと思う」っていうじゃないですか。そいで、第3部の電車の中で明里が昔の手紙を見つけて回想に入る。ここで明里は笑顔なんですよね。
貴樹くんはきっと大丈夫。って思ってるんですよ、まだ。
ああいいなあ。辛いけど……いいなあ。
ここがね、視聴4回目くらいで気づいた箇所。遅かったけど。
日々の生活をふと見つめて、「あたしゃあどこで間違えたのかなあ……」と思うことありませんか。私はありますよ、たくさん。この映画はそんな気持ちの代用品でもあるのかなとも思ったり。打ちに行ける1本。
貴樹くんに向けて「辛いのはキミだけじゃないぞ」的な。私も辛いぞと。これが励まし合いではなく、完全に傷の舐め合いになっているのが面白いところでもあるんですが。
一時期、PCの壁紙にしてました。
最初に観るなら『秒速5センチメートル』か『ほしのこえ』か、どっちかですかね。
ほしのこえ
『秒速5センチメートル』のあとは公開順に追っていくことになりました。『彼女と彼女の猫』はTSUTAYAにおいてなかった。
SFも作るのか、と。画が違うな、と。セカイ系じゃないか、と。久々に口にしたぞセカイ系。
『秒速5センチメートル』でも思ったことがあってですね。
新海誠作品の味っていうのは
みたいなことだったんじゃないのかな。そこが合わない人は無理くりなバッドエンドだとかそういう印象を持つ。
それに加えて、主人公たちに課せられる選択。そこでどうするか。どういう選択をするか、どう受け止めるのか。
さっき言った諦観の気持ちよさと重なるんだけども、そういう部分が「鬱作品ばっかり」とウケない人にはウケない部分なんだろうと私は分析します。
『ほしのこえ』では舞台が銀河系にまで広がり人(意識)の存在の矮小さ、みたいなものはさらに顕著になっていきました(公開順が違うから変な言い方ですが)。
「あれに乗るんだ……」にはじまり、パンチラインにあふれる本作。
私たちの多くには自由意志がある。それはやっぱり恵まれているんだなあとかそんなことを考える作品です。
最初に観たかったのは『ほしのこえ』ですね。これはいまも強く思ってます。
雲の向こう、約束の場所
さわたりーーーー!!!
なつ「もうわかったから」
南里侑香様がもう最高の演技なわけで。
新海誠作品で一番好きなヒロインが沢渡佐由理なわけで。それはもうどうしようもなくダントツなわけで。
かわいい。
新海誠のSFって設定や科学考証にどうこうはあまりつつくのも野暮な部類で、人情ものの一悶着が面白いんだなと。そしてやっぱり青春映画だなと。童貞映画だなと。観終わった後の感想は「どこまで行くんだ、新海誠」でした。
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星を追う子ども
劇場公開前の予告編から「ジブリっぽい絵になってるなあ」と思い結局観に行かず。
でもこんな記事書いていて、「星を追う子ども? ジブリっぽいから観てませんが?(ドヤァ」じゃカッコもつかないので昨日借りに行きました。
ジブリっぽいと思ったらほんとにジブリオマージュがいたるところに。ジブリオマージュというのかラピュタオマージュというのか。
一緒にサンドイッチを食うのは、受け入れメソッドとしては定番ですね。腹割っていこうぜという。同じ釜の飯を食う的な。
前半から中盤にかけて、アガルタに入っていったあたりまでで、なんだか全く物語に引きこまれていない自分を発見しまして。レビュアー気取り目線で構えていた部分はあるにしろ、どうにも先がそこまで気にならない。
よくあることですね。簡潔に言うと「これ面白くなんのかなー」と思っている。
理由としては キャラクターに感情移入できてないから。(後述)
よく聞く文言ですね。脚本指南書でもいつも出てくる。「読者を主人公に感情移入させろ」みたいな。もう耳タコですよ。確かに興味ない人間の生い立ちも将来もどーでもいいのは事実ですが。
なぜなのか? いくつか思いつく。
横文字造語が多い。それもある。後出しジャンケンをさせられている気分になるのは必然である。しかし、横文字造語は本筋には関わっていない。ややこしくはしたけど。
で、(後述はこっから)
今回のはそういうケース(キャラ感情云々)でもない気がした。
もっと前提として、根本の問題として
いまなにをやっているのか(何が行われているのか)がわからない
といった状態が視聴者を迷子にさせたんじゃないかと思う。そんな状態だと、
この後どうなるのかなんて気にしようがない
って思考の構造なのかなと思われる。
ぱっとラジオつけて
「広島対巨人の三戦目、8回ツーアウトから広島に満塁ホームランが出ました!!」
とだけ言われても、何対何のスコアから出たホームランなのかがわからないと意味がない。追いついたのか追い抜いたのか、同点から突き放したのか。それがわかればこの後の展開が予測できてさらに期待できるわけです。いまがわからないと先の展開なんてとてもとても。
ここはぐっと来たぜシーンもあったはあった
後半も後半。アスナに皆が呼びかけるシーンで回想風にキャラクターがピンで映り出されるカットで、マナ(ミミを引き取ってくれたアガルタの女の子)が「アーア」って言う。
これ、アスナって言ってたのか!! と。ここは鳥肌がぶわっとなった。娘がお父さんを初めて「おとーさん」って言ったときのあの喜びに近いんでしょうね。
命を全うして、泣いてくれる人がいるってのは幸せなことですね。私もそうありたい。そういうテーマが見えたのはいいことだ。2回目の視聴はないと思うのが少し残念。
言の葉の庭
花澤香菜・入野自由のWキャストに、大江千里のカバーを歌うのが秦基博。
20歳の花澤香菜に25歳の女性の演技なんて出来るんかいな、と劇場公開当時に思ってましたが、おおむねざーさんで良かったですね。元15歳、依然15歳のままな未熟な25歳だったからですかね。
でも、泣きじゃくりの演技はあんまり響いてません(おい
Rainに救われた観はある。予告編は完璧だっただけに。
雨がすごい。雨というか水分描写がもう何から何まで。
玉ねぎのみじん切りとか。緑とか。すべてが実線じゃないのも過去作品から変化しました点でしょうか。
この映画で私と新海誠作品は同期を向かえたわけです。最新の新海をラグもない状態で浴びられるようになった。そんな映画体験が悪くなるわけがないじゃないですか!?
この段の裏に反射するゆらめきがもうね。もうね(便利な言葉)
コンクリの打ち返しとか。
美術は最新なのでやっぱり綺麗。綺麗すぎて一回じゃ堪能できない。
ちょっと「?」となったシーン
非常階段で本音をぶつけるところですがね。
あの向こうに見える電気のついたマンションの窓。これいらないだろう。
ユキノ先生の後ろはどにょりとした曇で統一しているから目移りしない。でもタカオの後ろには窓があり「なんかあっこから出てくるんじゃねえか」と気になってタカオの表情から視線が外れてしまう。
いわゆるテーブルABCとかABC対話法とか言われる、視界上から目移りする要因になるものはすべて排除しようというアレ。
ここは視線誘導が他に流れてはいけないところだったのではないか。
しかし、総合的には大好きな作品です。
新海誠作品のおすすめは『ほしのこえ』から
まだ新海誠作品をひとつも観てない、今回の『君の名は。』が初めて、あるいはいくつか観たけど『ほしのこえ』はまだ観てない。という方。オススメです。
長ったらしく書きましたが、どうかどうかたくさんの方が新海誠作品を観てもらえますように。
さて、『君の名は。』はどうなるのか
どう楽しませてくれるのか。楽しみです。
私はムビチケで前売を購入したものの、26日はライブ活動に勤しむために劇場には寄れない。日曜日以降になる。そのときはまた駄文を生むと思うので、どうかどうか、優しい目で見守ってクレメンス。
おしまい。
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