『映画大好きポンポさん』観てきました。
『セッション』のオープニング、暗幕+アンドリューのルーディメンツを想起させる、〈CLAP〉のロゴとともに湧き上がる拍手に想像力豊かにニンマリしつつ、右に向かって走るジーン君と左に向かうナタリーのカットのつなぎが2人の運命的な出会いを見事に暗示していて「この映画は信頼できるな」と思いました。
その予感は裏切られることなく、画面分割・マッチカット・ワイプ・ジャンプカットといった力の入ったトランジッション(カットの繋ぎ)が矢継ぎ早にシーンを次へ次へと進めていく。ファッキンテンポとゴダールの声がする。しないしない。
まさにこの映画は「編集映画」である、と訴えかけるように、手練手管様々なバリエーションを繰り出していき、観客に”編集者”の存在をじわじわと刷り込んでいくのです。
映像はいい。色トレスの光描写も面白みがあるし、撮影の強さも見せつけていってる。楽しくなりそうだ。
と思っていたのですが……。
さすがにあの”72時間”を見過ごしてはならんのではないか。
「編集」の醍醐味と発展に伴うジレンマ
編集というものを考えると、やはり「縁の下の力持ち」というイメージが先行します。それはなぜかと考えると、自然であるほど認識が難しくなるジレンマを抱えているからではないでしょうか。
「高度に発達した科学は」うんたらかんたらみたいなものでしょうか。まっさらな鉛筆の両端の続きがどうなっていたか、想像したことはあるだろうか。
当然、自然であることだけが上位の編集ではないのですが、ひとつの指標ではあると思います。
そして、繋がれたものや繋ぐことそのものに意識が向くのはそれこそ脱初心者以降の観客で、完成したものしか見てこなかった人間には、繋がりが整っていればいるほど、その「継ぎ目」は見えてこない。基本的には「ない部分(削ぎ落とした部分)」には意識が向きにくいと思います。
断片の粗さが想像させる片割れ
おそらく、玄人素人問わず「編集」を一番認識するのは、ただ「ぶつ切る」行為(カット)だと思います。素材のほうの意味のカットでなく、ハサミを入れるほうの、削除の意味のカット。
その繋がりが不自然であればあるほど──たとえば話している最中にぶつ切りで次のカットにいくなど──「切り目」の認識が可能になり、また、切り落とされた部分への想像もはたらく訳です。
これが象徴的だったのが、冒頭のインタビュー。
肝心なところでぶつっとカットされているのです。ここで観客にも編集に知覚的になってもらおうと。
その後は、編集(カットのつなぎ方)にはこんなにも面白みがあるんだとバリエーションを見せていったのはさきほども書いたとおり。
映画をつくる映画、編集で語る編集の構図
ロバート・アルトマンの『ザ・プレイヤー』のような、「カメラが回っている最中にカメラの話をする」といった、メタ構造とは言わないまでも編集を編集で言及するようないわば「俯瞰的な箱を覗く構図」を突きつけられた私は、
と思ったもんです。
冗談です。
懐かしい映画は置いといて、ちょっと嫌だなと思い始めたのは予告編づくりのパートに入ったときでした。
予告編づくりパートの不満
劇場公開される作品もビデオスルーの作品も、予告編はたいてい存在します。
予告編というのは本編の劇場公開よりもずっと前の時期に発表されるもので、本作のなかでも「1番観られるもの」と言っていました。
で、予告編制作に取り掛かるタイミングについてですが、
- 撮影途中でなので素材は限られている
- クランクアップしていて、素材は豊富
主にふたつの可能性があります。
「予告編詐欺」の別の側面
まず、1のパターン。
撮影途中あるいは編集途中なので、本編で採用する素材が予告編を制作する会社まで回ってこない、というあまりよくない事態になっています。
しかし、予告編というのは、公開の何ヶ月前には予告編を発表するといった具合に期日とスケジュールが決まっているものです。だから予告編制作チームは、とりあえず手元に届いた、撮影が終わったカット群のなかから使えそうなものを切り貼りして、なんとか物語性を出したり、面白さを匂わせたりと”でっちあげる”のです。
このでっちあげた予告編には、(プロデューサー権限のカットかディレクター権限のカットかは不明ですが)結局本編で採用されなかった素材カットが含まれることもあり、いざ公開時になると「予告編で観たあのカットが本編には出てこなかった」(例『CURE』)、「予告編で使われていたいい感じの音楽がどこにも流れなかった」(例『再会の街で』)といったことが起こります。「『エクスペクト・パトローナム』ってそんな使い方なのかよ!」みたいなことが起こったりするわけです。
これを許せるか受け止めるかは個人の問題ですが、そういう背景があるのは知っておいてもいいかもしれません。
ただしジーン君、テメーは(以下カット
オフショットをミスリードに使う……だと
もちろん、撮影が万事快調であれば、予告編制作時に全素材が集まっている、というのも事例としてはあるのだとは思います。今回のポンポさんが手掛けたミスティア主演の(”B級”)パニック映画のように。
統計的にどちらがスタンダードなのか、素人の私には知りえませんが、プロモーションの面からみて、着手するタイミングと(訓練の側面があるとはいえ)急ごしらえがすぎるのではないかと思います。
というか予告編、内製なんだ。
そして、ジーン君の妙案「ミスリード」への評価についてですが、私は予告編詐欺に見舞われた経験が少なくなく、乖離した予告編に若干の恨みすら持っています。
本編に出てくる別の意味を持つカットを使った、誤読を誘う巧妙な繋ぎならまだしも、高い確率で使わないと判断できそうなカット(オフショット)を混ぜ込むという行為は「素材の弄び」のそれであり、決して趣味の良い編集とは思えない。そういうのは身内でやってくんないかな、と思ったりもする。
実際に、あの場面のポンポさんと監督の承諾の流れは「面白そうだし、いいんじゃね?」的なうえぃよーなノリすら喚起させてちょっとしんどいのです。所詮、適合者ですものね。
このあたりでジーン君への印象が「単なる夢見る青年」ではないなと思うようになります。あながち間違ってませんでしたが。
不適合者と撮影スタッフの監督業務
作中作映画『MEISTER』の撮影が始まります。
ここで大きくズレを感じ始めたのですが、他のスタッフからの意見が飛んできてそれいいかも的な賛成意見が出てきて、納得できる人間ってあんまり「不適合」じゃないですね。あの場面で高めあっていけるなら、ジーン君はきっとこの先も大丈夫だと思う、と呪詛を吐かざるを得ない。
このあたりの意見が観客も(というか私)納得できるような冴えた演出であれば、滞りなく受け入れられそうですが、思いつきをガンガン採用していく現場に「監督」は不在に見えて辛かった。
そんな蔑ろな状況にジーン君も辛さを感じてネガティブな展開へ続くのかと思ったらそうはならず、チームとして機能しているっぽい。
高度な芸術を描く限界問題
あとはお約束の指摘ですが、芸術性の凄みやそのパワーを描写できるのか問題。
『MEISTER』最大の山場である「振り向きのカット」をモニタで確認する2人に電流走りますが、このカットの凄さが私にはわからない。
文脈を把握できていないという前提はありますが、画面越しとはいえ震えるようなものを受け取れなかった。これが最終的な受賞にも繋がってきます。ニャカデミー賞というものの権威性などがぼやけてくる。一応、鑑賞前から予測はしていましたけど、芸術の高度さを表現するのは改めてめちゃくちゃ難度が高い、永遠の課題でしょう。
「実写っぽくないな」という印象
さらに付け加えるなら、あの振り向きのカット、全然実写っぽくないなと思いませんでしたか? アニメの撮り方じゃないですか? ニュアンス(便利な言葉)の問題でしょうか。
編集の説明パートとして「あの下手くその演奏者を外せ」というシーンもそう。「オレは誰だ?」と凄むシーンです(こんな台詞でしたっけ?)。
最初に見せられる方、没になるほうですが、あそこも作中作を観ているはずなのに、あんまり実写っぽくないカット割りやアングルが出てきます。
初めてマーティンと対面したときのオーラをエフェクトで描くのはいいとして、『MEISTER』のなかでも悶々とした紫色のエフェクトで邪気が立ち昇るカットがあったりして、それを実写でやったらダメじゃないか?
72時間の素材を90分まで削る”修羅”のリアリティについて
フィルム? データ? どっちだったかな。まあ、素材が72時間あったのは変わらないので、用語のディテールは良しとしましょう。
鑑賞後すぐは「72時間のOKテイクを90分にした」と思っていて、「さすがにそれはないか。72時間の撮影テイクを90分にした、だよな」と思い直しているところです。それでも正常な範囲なのか甚だ疑問ですが。
劇中作の『MEISTER(マイスター)』には当て書きの脚本がありました。撮影方法が順撮り方式だったかは記憶に残ってませんが、何を撮るのかは大方決まっていたはずです。
で、72時間の撮影データ。あまりの膨大さに面食らった&耳を疑ったので少し考えてみたい。
72時間も何を撮ったの問題
いったん現実的な尺度で考えてみて、一本の映画で72時間も素材が溜まるってどうなの? さすがに無駄が多すぎません? ドキュメンタリー映画じゃないんですよ。
ロケーション先の高原で、演者や撮影スタッフが意見を出したりもしていましたね。それでも、「スタッフのアイデアがどんどんと出てきて、撮りたい絵が増えた」ってプロジェクトチームとしてどうなの? チームとして、どうなの?
というか、あのシーンで私はジーン君の「不適合さ」が実は大したことなさそうに思えて、めちゃくちゃがっかりしたことを添えておきます。ジーン君の不適合さってそんなものだったの?
もちろんこの「それ採用♪」が大幅なデータの増加にどれほど関係していたのかは不明ですが、こういった積み重ねが素材の山を形成したのは間違いがないわけで。
日没までのタイムラプスでも撮っていたんですか?
一体どんな脚本から映像を撮り始めたら72時間になるんですか?
『MEISTER』の中盤か前半あたりにあたる、出会いのシーンまでを編集していたジーン君は、このシーンの編集時点で「もう1時間半を使ってる」って言っていました(記憶あやふや)。
本当に、どういう脚本なのこれ。どういうスタッフィングなの、ポンポさん!
『MEISTER』の脚本を考える
ポンポさんは90分が至高だ、というようなことを言うけれど、この発言をもって『MEISTER』の脚本が90分程度の長さのものである証拠にならないことくらいは私でもわかります。
あくまでも『MEISTER』の90分は結果であり、ポンポさんの教えに則ったわけでもなければ、そういった指令があったわけでもない。
90分にまとめるべく編集する話じゃあなくて、必要だと思う限界まで削ぎ落としていったら結果90分になった。
この順番を理解していないともう映画を観ていたとは言えないんじゃないですか?
それはさておき、謎の長尺について考えられるのは、ジーン君の「開花」のためにわざと長尺に設計しておいて、ジーン君がそこからどれだけ削ってくるか、監督になる覚悟や自立の意思をどれだけぶつけてこられるかを見たかった、試したかったんじゃないかというポンポさんの策略上の都合。
完全に自分でコントロールして作る映画よりも、ジーン君の自己決定が作用して引き起こされる化学変化(けみすとりぃ)に期待したんじゃないか。だってポンポさんはどんな映画でも面白くできちゃうわけですから。
だからこそ、ジーン君が追加撮影を嘆願したときにポンポさんは一瞬の笑みを浮かべたりもしたわけで。といっても、それさえも期待した通りの「予想外」だった感は否めませんが。贅沢のスケールが段違いの、最原最早みたいな人格ですね。
まあとは言っても、ちゃぶ台を返すようで恐縮ですが、脚本の長さが映像の長さに直結しないのもまた事実。そこまでの相関はないとも言えます。1ページのモノローグやダイアローグも映像を用いれば10秒で表現できたりも、たぶん可能でしょう。
複数台のカメラはあったと思う
マスターショット用の1シーンを取り続けるカメラが1台。さらに会話のシーンだとリバースショットなどを撮るためのカメラが2台。計3台。こうやって、複数のカメラをセッティングして同じやりとり、同じシーンを別アングルから撮ります。
つまり72時間の撮影データにはけっこうなシーンの重複が予想されます。
仮にカメラが3台あれば、2分そこそこの「控え室でのやりとり」でも6分強の撮影データになります。すごい丼計算ですが。
さらにはそれぞれのOKテイクと候補テイクもあればその数はどんどん増えていきます。
しかも本編では「2分そこそこの控え室でのやりとりのシーン」でも、実際は(脚本の段階では)5分間のやりとりであった可能性なども考えられます。そうなると撮影データはこのシーンだけでも15分~20分と膨らみます。
このようにひとつのシーンを取ってみても、撮影データは20分そこそこある状態からOKテイクの選択、OKテイクを繋いでみたあとに説明過多・テンポ感の重視などによる尺の省略を経た結果、”使える”2分だけが残ります。
2分のための20分の撮影データ。
大体いまの映画の平均上映時間は100~110分あたりで収まっているので、そのまま割合だけスライドさせると、16時間36分~18時間18分くらいの撮影データがあれば映画は作れます。
これらにさらにカメラテストで回したであろう、オフショットなんかも加えていけば撮影データは増えていくのではないかと。
しかしそれにしても、72時間は「捨てられない人間」でも無茶なレベルではないでしょうか。テストの分なんかすぐに削除しておけ。
勝手に選択肢を増やしておいて、勝手に迷っている。やや滑稽である。
削ぎ落とすものの大きさ
取捨選択。72時間のフィルムは人生や生き方の象徴になっています。
で、その72時間っていう数字の役割は、削ぎ落とす部分の大きさを示すためなんですよね。
シネフィルのジーン君が真の映画○○ガイとなるべく、友情とか彼女とか贅沢な食事とか、一見人生の華やかさに必要そうなパーツを、本当に自分に必要なものだけ(つまり映画)をのぞいて、全部を自らの手で捨て去っていく覚悟の表れ。
削ぎ落としが大きければ大きいほど鋭い「尖り」になります。
これが10時間を90分にしました、だと「あんまり捨ててないな。犠牲が少ないな」と思われる可能性もあります。もっと家とか抵当に入れてから映画撮れよとか言われちゃうかもしれない。
だからあらゆるものを捨てに捨てる(場を作る)ために、「超捨てるぜぇー」というモーションをとっている。でもこれは見方を変えると、ある程度は用意された、ある程度は演出された数字であることもまた事実。
もっとチーム・ポンポさんが(世間的な評判の通り)優秀であればこの数字は出てこない。72時間には最初から不要になる可能性が高いものが組み込まれている。
「そんなものまでたかだか映画(ktgi)のために切り捨てていくの?」という覚悟と狂気を見せつける場面で、観客も(というか私)要らないと思えるものが含まれていると、覚悟が鈍ります。むしろまだ捨ててなかったのかよ、とかにもなりかねません。
まだその可能性にしがみついてたのかと。
これは人生というものを「盛っている」と言えなくはないか。盛られたものを見て、観客は「自分も襟を正さないといけんな」とか言っている。24時間TVか? 24時間TVの3倍の虚飾さか?(ゆで理論)
無関係のアランに飛び火させてしまいますが、「自分はいままでとくに苦労せずに、こなしてきた」という旨の発言が2回ありましたけど、お前の世間が小さかっただけちゃうんかと思いますね。ぬるま湯にいたんだろと。銀行員がどれだけのエリートなのか、さっぱりわからんが。
削ぎ落とされた誰かの時間
実際に72時間を作る過程で、付き合ったスタッフ(付き合わされたスタッフ)が大勢いたでしょう。
その人達の返ってこない時間、その人達の人生をフィルムに転化させる行為と、それをさらにざっくざっく切り捨てていく悪魔の所業。そんな迷惑、気が狂っていないと実行できないですよ。自分だけの映画やないんやで。
もちろんそれが彼らの仕事であり、報酬にも触れているから怒るところではないんですが。
最初のほうで言った、監督というポジションに立つ以上はエゴイズムに身を置くことになるし、少なくない人数の人間を自分のやりたいことのために付き合わせるわけで、おいそれとジーン監督を好きになるのは難しい。
あーだこーだ言ってますがまとめると、多くを削ぎ落とすために用意した72時間と、「チーム・ポンポさん」の優秀さが演出的にバッティングしてるんだと思います。
72時間も無駄なテイクはじき出すチームなんか再招集しなくていいよ。
72時間、別の解釈
たぶん、72時間っていうのは、人生(≒寿命)から来た長さなのかもしれない、と思ったりもします。
とすると、映画として使えるような輝かしいシーンは人生において実は1年半程度の短さしかないよ、というメッセージも感じたりします。こんな呪いのブログ書いている場合じゃないよ、と。
図らずともエヴァ的な「外に出ろ」だったのか。まあこれもいま思いついたでっち上げなのですが。
そんな感じで〈『映画大好きポンポさん』の感想など〉でした。
おしまい。
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