『正解するカド』第9話放送時、脚本:野崎まどがブチかましたホームランを客席から見上げ、消えていったボールを見送りながら、私は口元を緩め心中小さくガッツポーズをした。アベンジャーズ的な引用で「これが野崎まどだ」とでも言いたい気分だった。
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私と野崎まどの付き合いは『[映]アムリタ』が出版されてすぐの頃、かれこれ8年ほどになる。二見くんが掲示板に目をやってから8年も経っている。思えば遠くへ来たもんだ。
といってもこの場合の”野崎まど”は、「私は芥川が好き」同様に野崎まどが書いてきた小説のことを指すので、著者・野崎とは当然会ったこともない。
アムリタ発売当時、純なトンガリワナビーだった私は最原最早の奔放なキャラクター性に惚れてしまい初めて著者へのメッセージというか巻末に挟まれているアンケートのようなものを書いたことを覚えている。わざわざ切手まで貼って投函したのだから相当に衝動的な高揚があったんだろう。
世は電撃一強のキャラ萌え時代──あまり迎合したくない煽情的な作品がウゴウゴしていた時代──にメディアワークス文庫はライトノベル界に新風を吹き込んでくれるんだという期待もあった。MW文庫もやはりKADOKAWA傘下であるのは承知している。
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迷著『独創短編シリーズ 野崎まど劇場』のなかの一作「西山田組若頭抗争記録」(ほとんどごっつのコント)に地元の地名がオンパレードで出てきたりで妙な親近感をおぼえたり、「もしかして同郷なのかな」なんて想像すらしてました。このブログの屋号も潜在的な影響があったりなかったり。
短編小説どころか、もはやコントの台本をたくさん読まされている感覚で、いいアンテナを持っている人だなと毎度笑わせてくれます。本書は5冊目くらいに読むのがオススメです。
しかし一発目の西部劇の短編からアクが強い野崎の作風が出まくりなので、まずはメディアワークス文庫から刊行されている作品を何か(『2』以外)を読んで、言葉のやり取りの味が自分と合うなと思ったら『野崎まど劇場』も楽しく読めるはず。やはり最初は『アムリタ』がいいかな。
とにもかくにも私は「野崎まど」が依然好きである。これももちろん比喩だけど。
『正解するカド』と野崎まどの見る世界
さて、『正解するカド』。
ジャンルでいえばSFが土台になるのだと思う。SFにはまったく明るくないのでハードやソフトの裁量も曖昧だけれど、『未知との遭遇』のテイストで身構えていけばいいのだと判断した(第10話を観た感じだと『2001年 宇宙の旅』も入っていたり)。似ているとかではなく。
『アムリタ』から『2』までの初期~中期の作品傾向でいえば、野崎まどの作品世界は、割と狭い範囲のできごとだった気がする。芸大での自主映画の話。小劇団の話。私立学園での奇天烈な殺人事件。作家志望ガールと編集者の話……などなど。野崎など。
狭い世界でありながら、常識をひとつふたつ覆してきた。お約束を反故にしてきた。
が、作品内で真実や新概念が提示されてもやはり世界がどうこうなるわけではない。あくまでも小規模な転換。世界のどこかではこんなことが起こっているかもしれない、そういう想起だけで幕を終える。そういった観点からは「少し不思議:SF」な性質を持っているといえる。エブリディ・マジックではないにしろ。
転換期の『know』
それが、ハヤカワから出版した『know』では「SF作品ゆえ」とはいえ、世界設定からして明らかにテイストが変わった。世界のシステムに絡まっていくべく、主人公の役職も重役のポジションに設定されている。小市民が非日常で何かをする話ではなくなった。
そして今回の『正解するカド』の主人公、真道幸路朗もエリートでありエリートらしい役職についている。外務省 国連政策課の首席事務官。なんだかすごそうだ。スケールもでかい。
ヤハクィザシュニナ──異方の存在は宇宙の外から来ている。
おそらく作品史上最高規模〈スケール〉であり、(ここがすげえ大事なのだが)最多の人を物語に巻き込んでいる。主人公にかかる命運の比重が『アムリタ』とは桁が違う。話のジャンルが違うから当たり前なんだけど。
作中の世界の設定や描写が拡がっていくというのは、一般的には作家の技量が磨かれた証左として喜ばしく受け止めて良いと思う。
このフィルモグラフィー、誰かに似てるな。
どうにもM・ナイト・シャマランを思い出してしまう
野崎まどの作品を読むと、ナイト・シャマランの作品群がダブるのは私だけではないと思う。
ナイト・シャマラン好き(シャマラニスト)、かつ野崎まど好きが現時点でどれくらいいるかは未知数だけども、設定を盛大にぶち上げて後読感とともに「これ、畳みきれた……のか?」と名状しがたい気持ちにさせてくれる。この感覚。たまんねーな。
世界規模の作り方にも似た傾向を見る。
シャラマンは『シックス・センス』から観始めた私ですが、『シックス・センス』のコール少年の”ある能力”で設定ぶちあげて見事に走りきった作品。これも世界規模は小さく、二人の対人関係が基軸でした。
『アンブレイカブル』も同様。基軸は二人。事故の被害者は例外にしましょう……。
『サイン』『ヴィレッジ』『レディ・イン・ザ・ウォーター』も狭い。
”とある限定的な場所”のできごとで完結する。
『ハプニング』でようやく一段階範囲の広がりをみせる。シャラマンの妙設定が社会問題に発展する。
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このように、だんだん物語の舞台に広がりが見えるところが密かな共通点だったりする。
妙な設定を出発点や終着点にする点も似ていると私は思う。その「妙さ」のベクトルが似ているのかもしれない。
発想にトキメキ
シャマランの物語を真剣に叩こうとするのは紳士的ではない、みたいな考え方がいつからか定着して、冒頭の映像美からの「(今度こそはすごい大作かもしれない……)」という期待感を味わいながら最後には「まあ、シャマランだしな」的に自分を慰めるのがシャマラン映画の楽しみ方だったりする。それに引っ張られるがごとく、「まあ野崎まどだから。完璧な着地を求めるのはお門違いかもしれないな。ふははh」みたいな見方/読み方が自分のなかにはある。
ホームランを打ってベースを踏み忘れるのが野崎まどだったりするのだ。
で、「いやー、軌道は最高だったなー」と半ば自分を騙しながら評価するのが嗜みなのだ。
実は同じ世界の話だったのか……過去作をリビングデッド
そういえばシャマランの『スプリット』では、とある過去作との繋がりが明らかになりました。私はすぐに野崎まどの『2』を思い出したりしました。「2」……ってどんだけストレートな……。
この辺にもミッシングリンクめいた何かを感じてしまいますね。
カドの話してない
第9話のホームランが予想通りといえば予想通り(ぶっ飛び新展開をほうりこんでくるだろうな、という意味合いで)ではあったけど、このあと畳めるのか? 期待して良いのか?
たためなくても私は一向に構わん! のスタンスでこのさきが楽しみです。
タイトルの”正解する”を曲解していくと、
正解する→マルをもらう→地球(まる)をいただく→地球を侵略するぜ!
つまり、地球を侵略しにきた異方(”方”には四角という意味もあるし)って意味だったのだ!
な、なんだってー!!!! ΩΩΩ
そんな感じで〈【アニメ】『正解するカド』脚本:野崎まどについて書いた日記〉でした。
おしまい。
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