行ってきました、『米津玄師 2017 TOUR / Fogbound』の栄えある第一日目。
in 大阪フェスティバルホール。
「今日はツアーの初日であり、アルバム『BOOTLEG』の発売日としても”初日”でもある」
──と本人もMCで触れていたように、ちょっとしたメモリアルなライブでした。うぃ。
はるか昔、『diorama』を最初に聴いたときは「ライドもハイハットもタムも一緒に鳴っているのは反則じゃないか」と憤慨していた私なのに、五年経つとライブに赴くまでになりました。本当にあの声で歌ってるんだなーとちょっとした驚き。
トータルでみると面白かったライブでしたし、メモリアルな場に自分もいたんだっていい経験をしたなとは思うのですが、記事のタイトルからお察しの通り、気に入らないできごともあったわけで。
その……つまり……
「手拍子」、やたら多くないですか? どうなの私達(あなた達、とは言うまい)。
過剰な手拍子に腕まくり
いち参加者が個人ブログで異を唱えたところで何が変わるわけでもないだろうけど、私が満点に楽しめなかった原因の輪郭くらいは少しだけでも伝えてみようかと。伝わるかな。
ちょっとした願い、というか希望ですかね。
包み隠さずに言い表すなら「私がもっとライブに没入して楽しめるように、ライブ中のあなたの行動をひとつ制限させて欲しい」
──というような申し出がいまから始まる……のであろう。なんたる横柄さ。自己中っぷり。米津ファンの風上にも置けない。
ただ、同じ時間と空間を共有する者どうし、同じ音楽に耳を傾ける者どうし、敵を作らずに味方になれないものかと。そういう気持ちがあるだけです。ホントデス、シンジテクダサイ。
しかし、それが一方通行な排除思想のもと動いているってところがやばいところなんですけど。ははは。草も生えないが、どうぞ笑ってやってください。
ライブ中の過ごし方/振る舞いについて
米津玄師のライブに限らず、「ライブは誰のものか」というのは難しいクエスチョンで、それこそライブの数だけ答えも無数にあると思う。
対して、誰がライブを作るのか(企画の意味じゃなくて)っていうのは割りと明確で、演者側とお客側の両方で作って……というか出来上がっていくものだと私は考えている。照明や音響は演者側に含まれるのは言わずもがな。
情報が一方通行なCD音源や映像作品とは違って、発信→受信→返信がシームレスな相互作用で出来上がっていくのがライブの特性であり、醍醐味であり、足を運ぶ意味と価値があるような気がします。これがネットの生放送もコメント付き動画も馴染みなく育ってきた人間の一人が持つライブの感覚と認識。
いわばライブという船の舵取りを観客それぞれが握っているといっても過言ではないわけで。
そんな”舵”の切り方にもいろいろあって、
眺める、手拍子をする、手を振る、腕を前後に振る、フレミングみたいな指の形を掲げる、握りこぶしを掲げる、左右に静かに揺れる、つま先でリズムを取る、頭を振る、声を出す、言葉を発する、奇声をあげる、名前を呼ぶ、泣く、笑う、跳ねる、座る、帰る、などなど。
幸せなら手を叩こう
で、とりわけ簡単に行える舵の切り方──神技が「手拍子と拍手」。
ステージに現れると拍手で迎え、曲が終われば拍手で賛辞を送る。
「みなさん、楽しんでますか?」→パチパチパチ。
肯定さえ拍手でまかなえてしまう。演者がこのときどう思っているかを想像すると、できれば言語には言語で返してほしいと思っているはずである。
- こんにちは→パチパチパチ
- 天気いいですね→パチパチパチ
- 元気ですか?→パチパチパチ
- お前ら拍手しかできない拍手星人かよ→………………
そこは「元気でーす」でいいじゃないかと思うこと常々ですが、それくらいにみなさん言葉を発したがらない印象。声を出すことで周りから浮き上がってしまうのが怖いのかな、と思っている。ステージに言葉を届かすにはタイミングや声量など意外に難しいものではあるのも承知しているけれど。
そんなこんなで、手を叩くことによる”返信/返事”は、発声よりも心のハードルが低いので好まれている。拍手には個人差が少ないからですかね。匿名性も担保されていて単純に便利だ。しかし便利ゆえに使い過ぎてしまう、依存してしまう。本当は厳重な取り扱いが必要なものなのに。
で、ひとつ訊きたい。
「その手拍子は必要か?」
ようやく本題に近づいてきました。
手拍子は万能薬じゃない
あくまで傾向として思ってることなんですけど、日本人は基本的にライブハウスでは静かなので、手拍子や拍手を好むのかなと。
たまたま、そういうライブの現場が多かっただけかもしれないし、こんなこと書いてる当の本人も、基本的にはビリーも皮肉を言っちゃうレベルの「地蔵タイプ」なので、人のこと言えないけど。一応は、演者はもちろんフロアの邪魔にはなりたくないくらいのことは考えてライブを観ています。
そんな手拍子、多数のアーティストが楽曲にも取り入れるくらいですから、もはや楽器と言っても差し支えない。あの音の響きの気持ちよさはみなさまご存知でしょう。
でも”楽器”である以上、大人数がやるとかなりの音になるわけで、ギターやドラムや歌と並ぶとたちまち毒にも薬にもなるんですよ。
米津玄師のライブで思ったのは、「毒」になってる手拍子が多かったなということ。
手拍子が合うパート、合わないパート
曲によって……よりもさらに細かく、AメロやBメロにおいて、って感じで手拍子の必要性、言い換えると「手拍子との親和性レベル」ってのは刻一刻と変わっているんですよ。
ひとつの曲のなかでも、手拍子が合わない部分と合う部分があったりする。
曲中でオフビートになったりテンポがハーフになったりするんだから、ずっと表の拍子でちゃんちゃんやっていたらズレが起こるわけです。
これはライブで手拍子がしたいのならちゃんと理解しないといけないことだと思います。
隊列を乱すくらいなら列に加わらないほうが良い、くらいの気持ちを持って言います。
「手拍子しなくていいところでは、しなくていい」
されても嬉しくない手拍子というのは、存在します。確実に。
周りがもし手を叩き始めても、自分が不要だと思えば腕組むなり足でリズム取るなりしてりゃいいんだ。フロア内で誰が一番気持ちよくなれるか戦争だ。
そんなの当たり前だろ、と思うなかれ。これが理解できていない人が多数と感じたから、こんな記事を休みの日に書いているのだ。
────と、圧かけぎみで書いてみたものの、特定の方面に責任押し付けたり喧嘩を売りたいわけじゃないし、楽しもうとしているお客さんの足を遠ざけるネガティブキャンペーンがしたいわけでもない。
誰かが言ってました、「お茶の間に届くとはそういうこと」だって。
メジャーなアーティストのライブを観に行くってのはそういうこと(がときに予期せずに起こったりすること)を承知で行くもんだって。諦めとかでもないんですが。流石に見下しと受け取られてもしょうがないくらいに失礼だし、通ぶりたいのなら通らしくおとなしくしよう(自分に向けられた「”お茶の間”という括り」に私は我慢できるだろうか。おそらくできない。熱意が入ったジャンルだとなおさら)。
いや、むしろ愚痴らずに、通ぶるなら、次に繋げられるような提案でもしてよって話で。
拍子がいまどうなっているのか、数字がどうこうは考えないでいいから体で感じられるようになれば、手拍子が合うかどうか、合わないかどうか、察知できるようになると思います。
拍と仲良くなる
拍にはウラとオモテの概念がある。パートごとにどこを強調するかが変わったり、もっと言えばパートの最中でも強調する部分は変わったりする。これがさっき「親和性」と説明した部分と理由。
そこに多数が一番想像しやすいであろう、かつ一番やっちゃう手拍子「ちゃん、ちゃん、ちゃん、ちゃん」のリズム(これは表4発の拍とり)。これがハマるときとハマらないときがある。別にポリリズムを形成したいわけじゃないんだし。
ハマってない状態ってどういう状態かというと、楽曲がじわりじわりと殺されている状態、に近い。殴られ続けているようなもの、紅茶を無理に飲まされ続けているようなもの、に近い。
どこに強拍を持ってきてその曲にノるのかは個人の自由なので、裏ノリ表ノリの解釈は今はどうでもいいんですが、首振ったり足動かしたりと違って手拍子は音が出るぶん周りが拍に意識的になってしまう。しかも周りに伝播しやすい。これが今回の問題点。間違いが拡散してしまう恐れがある。どこぞのSNSみたいね。
『飛燕』のイントロ前半は表4発でもいいけど、後半からAメロにかけては表4発じゃだめなんだ。せっかくのおいしいリズムが崩れちゃってる。アメリカンの風味が砂糖で台無しにしちゃってる。表4発でずっといくなら最初だけであとは手拍子なんかなくて良い。
あそこで「うんちゃ、うん、ちゃっちゃ」の手拍子が巻き起こる会場は優秀な部類に入るとは思う。ぜひ行ってみたい。難しいけど無理じゃない。この感覚をリスナーが身につけてほしい。
たとえ話、ただの数字/算数の話ですが、8って2でも4でも8でも1でもきれいに割れますね。
拍の解釈もこれに近く、ハーフをハーフで感じてもいいし、倍のテンポで感じてもいい。足は倍で頭の振りはハーフとか。これはおかしいことじゃないし個人の自由な部分。
ただ、演者から提示されているのがハーフの場合、そこに倍のテンポの手拍子で拍を刻んで、周りのお客の耳を塗りたぐるのは違うんじゃないかと。裏ノリが提示されているのに表ノリでパチパチするのは違うんじゃないの? 逆のリズムも然り。
これが言わんとする「毒になる手拍子」の正体です。
これがイヤって話がいつの間にか間延びしている。
だから言いたい。
「きみ、そこの手拍子、違くない?」(うたばんのときの石橋貴明っぽく)
逆ノリになった結果、演者の予想すら超えたいいアクシデントが起こる場合もなくはないんだろうけれども。まあ、あんまりないよね。
抜きの美学を感じてほしい
ある音楽をぱっと聴いたところ「8」だとしましょう。点数とかじゃなく。
これが「7+1」なのか「9-1」なのか、はアーティストの作風によって様々です。aikoなんかは「7+(1/3+2/3)」になりそう。
で、米津玄師はというと、「8(-1+1)」です。自分で書いててよくわかってない。
そこ音減らすの? って抜きの部分(-1)と、それ入れるの? って部分(+1)が彼の音楽作りのキモになっている。そこに降りるの? ってメロディもさることながら。
そういう抜きの美学で「静」を味わう楽しみが、安易な手拍子に侵されるのは我慢ならない。
『Nighthawks』のサビ前に手拍子が一発入るのが許せない。ギターだけ、ドラムだけ、ベースだけ、ブレスだけ、それだけで成立させたものにわざわざ妙な味付けは要らないんじゃないですか。まあ、曲を知らない人がいると仕方のない部分ではある。
だから、その、抜きの美学をですね……。
(あと大阪初日に、『ピースサイン』2番のBメロが、ハーフに変わったのにAのテンポを引きずったまま手拍子を続けたもんだから裏拍アクセントみたいになってたりして酷かった。ほんとうに酷かった。これはただの愚痴)
手拍子するなら強弱を考えて
もうひとつ、初めから最大フルパワーでデカイ音を出そうとするのは止めよう。曲には盛り上がりなんかの流れがある。手拍子も楽器なんだから曲に寄り添っていかないとダメだ。クレッシェンドを意識してください。
あと隣の人の耳の位置を考えて拍手と手拍子をするように。手の腹を狙って無駄にハイを飛ばそうとするのもやめてください。というかマジで止めろ。耳が悪くなるだろ。あなたの手拍子は回りの人間に影響を与えているんだって自覚をしろ。
ライブはみんなでつくるのだから
以上。愚痴の数々でした。
手拍子が相まっていい雰囲気になっていた曲も勿論ありました。これは伏せておいたほうがこれからライブに行く人の楽しみになっていいでしょうから、ここでは言いません。
信じてもらいえないでしょうけど、トータルではいいライブだったんです。
ちょっと私がおかしいんです、きっと。
あくまで善意を持ってやってることに対して「曲の邪魔をするな」と断罪するのもおこがましい話ですが、しかし全体でつくるライブである以上、変な方向に扇動される事態は私も避けたい──。避けたいというか望んでないというか。
私自身、ひとつの間違いなく全部正解を知っているなんて、そんなことはあり得ないし思ってません。あくまで私が思う正解らしいビジョンを描いているだけで。
葬式にアロハシャツは違うんでないか、とかそんな単純なニュアンスの話なんですけど長くなってしまいました。アロハシャツ着るのだって自由だ。ルールじゃなくてマナーだ。
結局、どう扱うかは空気を読むってことになるのかもしれない。空気を読むって言葉が嫌なら、思いを汲むとかにしよう。
「ここはこうするのが最適解なんだよ」とマイルールを強制的に押し付けておいて、”感覚を共有したい”なんてのは、まあ周りから鬱陶しく思われやすいありがちな話で、「なんちゃらかんちゃらあーだこーだイェッタイガー」とかがその最たるもののような気もする。あれも言ってみれば、必要派不要派の正義と正義のぶつかり合いで落とし所なんて存在しないんだと思う。血でも流さない限りは。
要は、みんな全員で楽しみたいとは思っているはずで、その方法がおのおの違う認識だってだけで、私としては「ここはこういう流れのリズムで進行しているのでこういうノリ方が気持ちよくなれるはずだよ」って、そんな提案がしたいような気持ちになったってことなんだな。
たった3行でいい答えが出ちゃったよ。
私の抱いた感覚を共有したいけれど強要はできないから、どうにか感化されてくれないかなと思って、ここに場を移して啓蒙活動のかじりみたいなことしてみました。
これを機に少しずつリズムの取り方と良きアウトプットについて考えてくれれば幸い。楽曲の予習なんかしなくたって直感で乗っかっていけるように。
関連リンク
米津玄師 公式サイト<http://reissuerecords.net/>
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