米津玄師のライブと私達の手拍子

Nighthawks ナイトホークス 楽曲類α

『ナイトホークス』/エドワード・ホッパー

 

行ってきました、『米津玄師 2017 TOUR / Fogbound』 in 大阪フェスティバルホールの栄えある第一日目。

「今日はツアーの初日であり、アルバム『BOOTLEG』の発売日としても”初日”でもある」

──と本人もMCで触れていたように、ちょっとしたメモリアルなライブでした。うぃ。

はるか昔、『diorama』を最初に聴いたときは「ライドもハイハットもタムも一緒に鳴っているのは反則じゃないか」と憤慨していた私なのに、五年経つとライブに赴くまでになりました。本当にあの声で歌ってるんだなーとちょっとした驚き。

トータルでみると面白かったライブでしたし、メモリアルな場に自分もいたんだっていい経験をしたなとは思うのですが、記事のタイトルから予感がする通り、気に入らないできごともあったわけで。

その……

「手拍子」やたら多くないですか? どうなの私達(あなた達、とは言うまい)

変な空気になっていった感覚ありませんでした?

抑えるところは抑えるのがフロアからも作っていく音楽じゃないですか?

 

と、圧かけぎみで書いてみたものの、特定の方面に責任押し付けたり喧嘩を売りたいわけじゃないし、楽しもうとしているお客さんの足を遠ざけるネガティブキャンペーンがしたいわけでもない。

今回のことは言うなれば、ビッグネームになっていくアーティストの宿命のようなものだと認識している。

誰かが言ってました、「お茶の間に届くとはそういうこと」だって。メジャーなアーティストのライブを観に行くってのはそういうこと(がときに予期せずに起こったりすること)を承知で行くもんだって。諦めとかでもないんですが。それは流石に見下しと受け取られてもしょうがないくらいに失礼だし、通ぶりたいのなら少々狭量というもの(自分に向けられた「”お茶の間”という括り」に私は我慢できるだろうか。おそらくできない。熱意が入ったジャンルだとなおさら)

 

いち参加者が非公式に個人ブログで異を唱えたところで何が変わるわけでもないだろうけど、ただ私が満点に楽しめなかった原因の輪郭を少しだけ伝えてみようかと。

ちょっとした願い、というか希望ですかね。

平たく、包み込まずに言い表すなら

「私がもっとライブに没入して楽しめるように、ライブ中のあなたの行動をひとつ制限させて欲しい」

 

─という申し出になる……のであろう。なんたる横柄さ。米津のファンの風上にも置けない。

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ただ、同じ時間と空間を共有する者どうし、同じ音楽に耳を傾ける者どうし、敵を作らずに味方になれないものかと。そういう気持ちがあるだけです。ホントデス、シンジテクダサイ。しかし、それが一方通行的な排除思想のもと動いているってところがやばいところなんですけど。どうぞ笑ってください。

 

日記みたいな振り返りなんで、曲目など当日のネタバレを含んでいる点は留意求む。

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ライブ中の過ごし方/振る舞いについて

米津玄師のライブに限らず、すべてのライブに当てはまることですが、「ライブは誰のものか」というのは難しいクエスチョンで、それこそライブの数だけ答えも無数にあると思う。

対して、誰がライブを作るのか(企画の意味じゃなくて)っていうのは割りと明確で、演者側とお客側の両方で作って……というか出来上がっていくものだと私は考えている。照明や音響は演者側に含まれるのは言わずもがな。

情報が一方通行なCD音源や映像作品とは違って、発信から受信から返信がシームレスな相互作用でできあがっていくのがライブの特性であり、醍醐味であり、足を運ぶ意味と価値があるような気がします。ネットの生放送もコメント付き動画も馴染みなく育ってきた人間の一人が持つライブへの認識ですが。

いわばライブの舵を観客それぞれが握らされているといっても過言ではない。

そんな”舵”の切り方にもいろいろあって、

眺める、手拍子をする、手を振る、腕を前後に振る、フレミングみたいな指の形を掲げる、握りこぶしを掲げる、左右に静かに揺れる、つま先でリズムを取る、頭を振る、声を出す、言葉を発する、奇声をあげる、名前を呼ぶ、泣く、笑う、跳ねる、座る、帰る、などいろいろある。

これらは全部自由であり、自由なのに秩序があるってややこしい話。

喋ってないで手を動かせ、を真に受けたような

あくまで傾向として思ってることなんですけど、
日本人は基本的に静かだし、言葉を返す系のレスポンスもどちらかというと遅い。返らないときさえある。なんというか、優秀とは言えない。

経験上そういう現場が多かっただけかもしれないし、こんなこと書いてる当の本人は基本的に「地蔵」で非協力的なお客なのでなんにも言えないが、邪魔はしたくないくらいのことは考えてライブを観ているしフロアに立っている。ライブを観るのではなく観させていただいているという概念云々……。

そんな恥ずかしガリーな私達の神器ならぬ神技が「拍手および手拍子」である。
肯定さえ拍手でまかなえてしまう。

「みなさん楽しんでますか?」→パチパチパチ。

そこは「楽しいでーす」でいいじゃないかと思うこと常々ですが、それくらいにみなさん言葉を発したがらない印象。声を出すことで周りから浮き上がってしまうのが怖いのかな、と思っている。ステージに言葉を届かすには、タイミングや声量など意外に難しいものではあるのも承知しているけれど。

そんなこんなで”手を叩くこと”による”返信/返事”は、発声よりも心のハードルが低いので好まれている。拍手には個人差が少ないからですかね。単純に便利だ。

演奏中には手拍子というかたちでライブに参加することになったり。

で、ひとつ訊きたい。

「その手拍子は必要か?」

 

ようやく本題に近づいてきました。

手拍子は万能薬じゃない

多数のアーティストが楽曲にも取り入れるくらいですから、もはや楽器と言っても差し支えないだろうし、あの音の響きの気持ちよさはみなさまご存知かと。

でも”楽器”である以上、大人数がやるとかなりの音になるわけで、ギターやドラムや歌と並ぶとたちまち毒にも薬にもなるんですよ。

米津玄師のライブで思ったのが、「」になってる手拍子が多かったなと。

曲によって……よりもさらに細かく、AメロやBメロにおいて、って感じで手拍子の必要性、言い換えると「手拍子との親和性」ってのは刻一刻と変わっているんですよ。

ひとつの曲のなかでも、手拍子が合わない部分と合う部分があったりする。

これはライブで手拍子がしたいのならちゃんと理解しないといけないことだと思います。

フィーリングに依るところも大きいですが、
手拍子しなくていいところでは、しなくていいんだ。

周りがもし手を叩き始めても、自分が不要だと思えば腕組むなり足でリズム取るなりしてりゃいいんだ。フロア内戦争だ。

 

そんなの当たり前だろ、と思うなかれ。
これが理解できていない人多数と感じたから、こんな記事を休みの日に書いているのだ。

(複合パターンの手拍子は割愛して、リズムの一定された手拍子のみに絞って話を進めてます。「ちゃん、ちゃん、ちゃん、ちゃん」の繰り返しのやつね)

拍の概念

入り口だけ触ると、拍にはウラとオモテの概念がある。パートごとにどこを強調するかが変わったり、もっと言えばパートの最中でも強調する部分は変わったりする。これがさっき「親和性」と説明した部分と理由。

そこにみんなが一番想像しやすいであろう手拍子「ちゃん、ちゃん、ちゃん、ちゃん」のリズム(これは表4発の拍とり)がハマるときとハマらないときがある。別にポリリズムを形成したいわけじゃないんだし。

ハマってない状態ってどういう状態かというと、楽曲がじわりじわりと殺されている状態、に近い。殴られ続けているようなもの、紅茶を無理に飲まされ続けているようなもの、に近い。

どこに強拍を持ってきてその曲にノるのかは個人の自由なので、裏ノリ表ノリの解釈は今はどうでもいいんですが、首振ったり足動かしたりと違って手拍子は音が出るぶん周りが拍に意識的になってしまう。しかも周りに伝播しやすい。これが今回の問題点。間違いが拡散してしまう恐れがある。どこぞのSNSみたいね。

飛燕』のイントロ前半は表4発でもいいけど、後半からAメロにかけては表4発じゃだめなんだ。せっかくのおいしいリズムが崩れちゃってる。アメリカンの風味が砂糖で台無しにしちゃってる。表4発でずっといくなら最初だけであとは手拍子なんかなくて良い。

あそこで「うんちゃ、うん、ちゃっちゃ」の手拍子が巻き起こる会場は優秀な部類に入るとは思う。ぜひ行ってみたい。難しいけど無理じゃない。この感覚をリスナーが身につけてほしい。

こういう後ろ向きな話がけっこう続きます

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