タオルとティッシュとコンテンツ

アニメの話

欲しいのは吸収力。

私はアニメが好きだし映画が好きだし、小説も少しだけど読んだりする。

近年は個人のブログだったりTwitterのTLだったり、場所を変え、タイミングを問わず、視聴者や読者が自分の感想を世に出すことは一般的な楽しみ方になりつつある。共有する楽しみ、共有を前提とした楽しみ方があるのだろうと思う。

そういった誰かの感想もとい言語化された感受性を見せつけられるたびに、ほんとうに自分と同じものを観てたのか、という気持ちになることも珍しくない。

こう書くと上を羨んでいるのか、下を蔑んでいるのか伝わりにくいが、実際のところ、7:3くらいの比率で基本的にはヘコむ結果になることが多い。

同じものを観たはずの自分は、眼の前のコンテンツ(鼻につく表現だなぁ)の半分、いや、4分の1も楽しめていないのではないか、理解できていないのではないかとたまらなく不安になる。

それぞれ経験値や文化背景が違うのだから、出てくる感想が違うのはイナメナイ。そんなのは当たり前のことと認識すれば話は簡単なのですが、どうも柔軟性のない性格らしく(INTJ型ですって)、自分の未熟さに責任を押し付ける毎日です。

感受性応答セヨ

はたして、私の感受性はタオルなのかティッシュなのか、それが問題だ。

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コンテンツと吸収力

ここに巨大なIPのとあるコンテンツがある。
コップに入っている液体を「コンテンツ」とする。だいたい200ccくらいの。

もし受け止める感受性が”ティッシュ”の場合、テーブルに広がる液体の上に一枚置くとたちまちビチャビチャになるだろう。おい、もうビシャビシャじゃねえか。ティッシュが吸収できる容量のキャパシティは限界をむかえ飽和状態になったわけだ。だがしかし、テーブルにはまだ液体が残っている。

この溢れたぶん(拭き取れなかったぶん)が「取りこぼしたコンテンツからの情報」である。MOTTAINAI.

他方、感受性が”タオル”の場合、テーブルに広がった液体は99%タオルに吸収される。なんならおかわりだってできそうだ。あますことなくコンテンツを吸収することが可能な人間の特権。感受性はタオルでできている。

こんなことをたまに考える。私の感受性はタオルなのかティッシュなのか。

みんな違って、みんないい

ただ取りこぼしているように見えるティッシュのほうにもいい部分があって、それはキャパシティいっぱいまで全開で楽しんでいるという点は救いでもあると私は思う。そう思わないとやってられないってのもある。

タオルは情報をぜんぶ吸収することはできても全身がビチャビチャにはなかなかなれないんですよ。膨大な情報量が付加されたコンテンツが現れない限りは。

データベースは答えを出せない的な寂しさがここにはありますね(何を言ってるんだ

タオルもそれはそれでなんか退屈かもな、とか考えて自分を慰めてます。

「観る」ってなんだろうか

やけに強気なときなんかは、私もこんぐらいやれるぜ、とばかりにTwitterに感想を投稿することもある。乾いたティッシュみたいに軽いやつを。

面白かったです? とか。次が楽しみ? とか。

例えばもっとこう、ここの演出にはこういう意図が込められていて、この仕草はあっこでやったことの繰り返しなので言葉に反して肯定の意思表示があって……みたいなことが自分のなかに芽生えてこないのであれば、それは「観た」と言えるのか。そんなことが頭をよぎる。

観るってなんですか。

日光東照宮に足を運んだけどずっとスマートフォンいじってるだけですでに外観も何も覚えていない状態の人間は「日光を見た」と言っていいのか。「天気は良かったなあ」くらいしか記憶に残せなかったとしても。

実はわたしはアニメを観ているつもりでいて、実際はアニメが流れる画面の前に座ってるだけなんじゃないのかな。水槽ブレインみたいな。

どのぐらい自分のなかに取り込めて、
どのくらい情報の分解ができていているのか。

そんなことを考えてしまうと、第2話か3話くらいまで進んでしまって出遅れたものを追っかけるのにも妙なプレッシャーが芽生えるし、作品よりも称賛の声が先に届くだけで視聴に対して身構える。そして、一旦見送った結果がこれである!!!

いまから作品を観るわけけれど、自分はちゃんと理解できるだろうか(以下、軽いループ

”コンテンツ全部見る男”のときも考えていた問題だけど、どっから「観た」なのか。どこから「聴いた」なのか。

入場料払って映画館で二時間座ってたら「観た」のか。文脈の咀嚼はなしか。オチを誰かに話せたらOKか。そんな撫でただけの体験に意味とか求めるのは野暮なんですか。

・・・

もう何もわからん。ギブ。

誰か私にタオルを投げかけてくれ。

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