タオルとティッシュとコンテンツと。アニメを観るということ

アニメ感想文
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さて、うえの写真を見てほしい。

コップに入っている液体は「コンテンツ」あるいは「コンテンツが持つ情報量」である。

巨大なIPの とあるコンテンツがコップのなかにあるとする。

アニメでも映画でも小説でも、なんでもいい。コンテンツがそこにある。

もし受け止める感受性が”ティッシュ”の場合、テーブルに広がる液体の上に一枚置くと、たちまちビチャビチャになるだろう。おい、もうビシャビシャじゃねえか。

ティッシュが吸収できる容量のキャパシティは限界をむかえ飽和状態になったわけだ。だがしかし、テーブルにはまだ液体が残っている。

この溢れた水(拭き取れなかった水)「取りこぼしたコンテンツからの情報」である。

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感受性とキャパシティ

ティッシュの反対側にはタオルがある。

タオルならテーブルに広がった液体の99%が吸収できる。なんならおかわりだって可能だ。あますことなくコンテンツの情報を吸収することが可能な人間の特権。感受性はタオルでできている。

そんなことをたまに考える。

私の感受性はタオルなのかティッシュなのか。それが問題だ。

みんな違って、みんないい

情報を取りこぼしているように見えるティッシュにも、キャパシティいっぱいまで全開で楽しんでいると捉えられる点があり、それが救いにもなっている節が私のなかにはある。

そう思わないとやってられない、がより精確かもしれない。

タオルは情報をぜんぶ吸収することはできても、全身がビチャビチャにはなかなかなれない。膨大な情報量を持つコンテンツが現れない限り。予想の範疇で情報を処理できてしまうのは、アクシデント性に欠ける。

アクシデント性というのは、つまり「感動は出会い頭」の理念に基づく予想外の出来事を指す。

データベースは答えを出せない的な寂しさがここにはありますね(何を言ってるんだ

「観る」ってなんだろうか

視聴者や読者が自分の感想を世に出すことは、個人のブログだったりTwitterのTLだったり、場所を変え、タイミングを問わず、一般的な楽しみ方になりつつある。

共有する楽しみ、共有を前提とした楽しみ方があるのだろうと思う。

そういった誰かの言語化された感受性もとい”感想”を見せつけられるたびに、ほんとうに自分と同じものを観てたのか、という気持ちになることも珍しくない。

同じものを観たはずの自分は、眼の前のコンテンツの半分、いや、4分の1も楽しめていないのではないか、理解できていないのではないかとたまらなく不安になる。

語れなければ観てないか

やけに強気なときなんかは、私もこんぐらいやれるぜ、とばかりにTwitterに感想を投稿することもある。乾いたティッシュみたいに軽いやつを。

「面白かったです」とか。「次が楽しみ」とか。

例えばもっとこう、ここの演出にはこういう意図が込められていて、この仕草はあっこでやったことの繰り返しなので言葉に反して肯定の意思表示があって……みたいなことが自分のなかに芽生えてこないのであれば、それは「観た」と言えるのか。そんなことが頭をよぎる。

「観る」って一体なんですか。

日光東照宮に足を運んだけど、ずっとスマートフォンいじってるだけですでに外観も何も覚えていない状態の人間は「日光を見た」と言っていいのか。「天気は良かったなあ」くらいしか記憶に残せなかったとしても?

実はわたしはアニメを観ているつもりでいて、実際はアニメが流れる画面の前に座ってるだけなんじゃないのかな

どのぐらい自分のなかに取り込めて、どのくらい情報の分解ができていているのか。

「いまから作品を観るわけだけれど、自分はちゃんと理解できるだろうか(以下、軽いループ」

そんなことを考えてしまうと、第2話か第3話くらいまで進んでしまって視聴が出遅れた作品を追っかけるのにも妙なプレッシャーが芽生えるし、作品よりも称賛の声が先に届くだけで視聴に対して身構える。

”コンテンツ全部見る男”のときも考えていた問題だけど、どっから「観た」なのか。どこから「読んだ」なのか。どこから「聴いた」なのか。どこから「行った」なのか。

入場料払って映画館で二時間座ってたら「観た」のか? 文脈の咀嚼はなしか? オチを誰かに話せたらOKか。そんな撫でただけの体験に意味とか求めるのは野暮なんですか?

・・・

もう何もわからん。ギブアップ。

誰か私にタオルを投げかけてくれ。

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