電車内の会話描写が耐えられなくなってきた

荒ぶる季節の乙女どもよ 第1話アニメ分析/感想文

最近アニメ観るの向いてないんじゃないかなって強く思います。余裕がねえす。

というのも、車両内の会話のやりとりが出るたびに、イライラして、この話を書いた脚本家の人間性やべえなと思うことが多い。コンテもなめてんな、クソだなマジで、と思ってから「違う、これはキャラクターの人間性がクソだって描写(演出)なだけであって、書いてる人は微塵も悪くない。落ち着け私」と納得に追いやる。作者の人間性が滲み出ている、なんていうのは幻想なのだ。

キャラクターが悪いだけなのだ。

公共性の軽視(あるいは無視)をしているのはあくまでキャラクターだ。

だから私も穿った見方(誤用)などせず、脚本家にキレたりせず、画面のなかの現象と現像にだけ怒るしかないのだ。

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ワキマエロ・テメエ

荒ぶる季節の乙女どもよ。』の電車内の描写がキツくて、どういう気持ちでこのシーンを書いていたんだろう、どういう心境で収録したんだろうとか考えてしまう。どうして脚本家になったときにこんなシーンを書こうと思ったんだろう。

第1話。クラスの一部の女子からは”地味子”と呼ばれる主人公・和紗と、その親友・もーちんが二人して下校時に電車に乗って帰るシーン。話題はややプライベートな話(幼馴染がカッコいいと苦労するねとかなんとかそんな話)

画面はこんな感じ。けっこう人が乗ってる。(もういい加減慣れてしまったが)嫌な感じだ。

荒ぶる季節の乙女どもよ 第1話
背が高いのか天井が低いのか……(『荒ぶる季節の乙女どもよ。』第1話より)

 

でもみんな無反応なんですよね。べらべら立ち話してる女子高生がいるのに。スマートフォンとかイジって、現実でも見慣れたけど、なんか気持ち悪い空気だなって。スマートフォンが本体なんだもんな、しょうがないな。

和紗がちょっと声を潜めるような発声に一瞬だけなるにはなるけど、それでもまあ同席したくないなってくらいには迷惑に映る。

そのあとにさらにズッ友宣言みたいな、自分たちだけの世界に入ってくような会話の内容に。

荒ぶる季節の乙女どもよ 第1話
『荒ぶる季節の乙女どもよ。』第1話より

いやぁ、邪魔だわ……。同席したくない。

こんなふうに、無配慮な行動を見せられては毎度イライラするんだけど、スタッフからの立場で言えば「いや、気持ち悪く映るように作ってますので、それを気持ち悪いと言われましても……(ニヤニヤ」って返しが来たらもはや指摘にすらならないし、イタチごっこじゃないですか。若干劣勢の。なんか悔しいです。

自分かわいさみたいなのが鼻につく

文芸部所属という肩書きに付いてくる「ものを知っている」だとか「博識だ」といったステータスは、彼女アコガレの未来像……オトナ(いわば”出来た人間”)に近づく行為だと思っているフシが見受けられる。読書は高尚だという自意識や美意識。

そして、オトナへの可能性多少なりとも早い段階で(読書によって)獲得していることが彼女たちの内なる自信であり、彼女たちのアドバンテージでありながら、しかしそれらが学内での良好な人間関係の構築に上手く作用されていないところがチャーミングだなって思ってたんですよ。

そこに過去の自分を重ねてしまったとしても、なんら不自然さも不都合もないし、むしろ微笑ましささえあったりします。

で、和紗にしろもーちんにしろ、思いきりクラスで浮いてるわけでもないけど、当然クラスの中心人物でもなくて、もはや普通に見慣れた””悩める女子”をやっている。そこに関しては、和紗ともーちん、かわいいじゃないですか。いい子だなって思うじゃないですか。

なのに、電車に乗ると長々ベラベラデカイ声で話しやがって……。

 

こういう周りへの配慮の欠けたやりとりを目にしてしまうと、もう恋の成就とか見守るモードじゃないんです。こういうのに「感情移入ができない、ダメ」とか評したら鬼の首取りたがりキッズが飛んでくるらしい。といってもこの場合は、ただ好きになれないだけだから。似たようなもんだけど。

なんというか、うじうじしてっけどそういうところなんじゃん!?

そういう無自覚さが人の価値を下げうる要因なのに、「どうしてなんだろー?」って被害者ヅラはじめるのは、なんなのてめー!? おい、ノックしろよ和紗! 

余談:部長の崩れ去っていった魅力

なんか一際ピーピー言ってた部長があっさり恋仲をつくり始めて、「ブレブレかよてめー」と理不尽に翻弄されていたあたり岡田脚本だなあと思っていました。でもそこはいいんです。

こともあろうか最近、岡田脚本について意識が変わってきていて、「岡田脚本では運命めいた何かに理不尽にも翻弄されるものだ」という考え方から「理不尽な運命めいたなにかに翻弄されるものを岡田が書いているのだ」というモードへ変化しました。断っておきますが、私のなかでの岡田麿里像のお話です。

それにしたって許容しにくいのは、部長の「穿った」の用法が誤用だったってところですよ。

「穿った」というのは「ことの本質をついた」という意味で使うもので、偏見が混ざってたり捻くれたような意見なんかを「穿ったものの見方」って言うのは違うんですよ。

本当に文芸部なのか? 学校だけのキャラか? 真面目トキドキ文芸部か。

スタッフ「そういう誤用を言ってしまうキャラクターなんです(ニヤニヤ」

つまりキャラクターが悪いのか、脚本家が悪いのか。またもやイタチごっこだ。勝ち目のない。

部長ともあろう人間が誤用を発すると、なんか魅力がなくなります。上の方で言ってたアドバンテージがガラガラと崩れ去る。チャーミングさが失われる。しかも、図書室でベラベラ喋る十条さん(ギャルのクラスメイト)を諭したりできなくなっている。どころか、自分からも隙あらば『星の王子さま』語り。完全に十条さんとかに染まっていって周りが見えてないじゃない。私は『積木くずし』が観たいわけではないんですよ。そして『未成年』が観たいわけでもない。

もうこの文芸部はダメだ。慎ましさとか、常識とかが無い。常識がないのがステータスのキャラクターじゃないのだから、それはただのマイナスポイントでしかない。ただの官能朗読を嗜む会に見えてきたぞ。

フェイクな君こそ、グッド・バイ。

じゃあ電車の話に戻ります。

電車内にもいろいろあるわけですが

乗車率の地方的な事情とか、空いている時間帯とか、乗車している人たちの構成とか、話し声のボリュームとか──電車内ひとつ挙げても状況は様々なので、すべての作品の会話が私をイライラさせるわけではない。

その分水嶺はどこにあるんだって考えると、

  1. 他の乗車客との位置関係とフレーム内情報の裁量
  2. 話している人物のキャラクター性

この二点が大きいのではないかと。それでも明確ではないんですが。

たとえば同クールに放送していた『女子高生の無駄づかい』でのバカとリリィの電車内のやりとりのシーン。

(ここから贔屓作品への擁護褒めが始まります)

だってバカだしな、という甘やかし

第5話。リリィの帰宅途中、同じ電車内になぜかバカが乗り合わせていて、見つかってしまった直後に絡まれるシーン。車両内を走るというバカのどうしようもない迷惑行為はぜひ動画で確認してほしいところですが、それはおいといて。

『女子高生の無駄づかい』第5話より
『女子高生の無駄づかい』第5話より

フレームと人物の観点では、手前からリリィ・同乗者たち・バカと並び、視線の流れが気持ちよく、電車内のレイアウトとして非常にきれいにまとまっている。見やすい。バカもリリィに気づいておらず、乗客も自分の生活をしていて、静かだ。

『女子高生の無駄づかい』第5話より
『女子高生の無駄づかい』第5話より

リリィに気づいたバカは「おーいリリィ!」とでかい声を発し、リリィに駆け寄ってくる。駆け寄ってくる瞬間が二枚目の画像で、立っている乗客を見ると、声を発したタイミングでバカの方(奥の方)に顔を向け視線を送る。舞台美術ではなくて生きている乗客というのが感じとれる。

『女子高生の無駄づかい』第5話より
『女子高生の無駄づかい』第5話より

三枚目。リリィの直ぐ側まで来たバカ。後ろでお姉さんが「(なにあのコ……)」と少し興味の視線を送っているのがわかる。表情から侮蔑のようなものは見えないので、まあ女子高生ならこれくらいの”はしゃぎ”は仕方ないのかも、くらいのことを考えてるのかもしれない。私と違って、優しい心を持っていますね。

『女子高生の無駄づかい』第5話より
『女子高生の無駄づかい』第5話より

そのあとは、会話が始まる(田中さんもこの電車使うんだ~、みたいな日常会話。さすが周りが見えてるりりぃ)タイミングで横からのミドルショットに切り替わり、乗客はフレームから外れる。外れてしまうので、反応が見えない。

乗客をフレームの外に追い出せば、いま世界は自分たちだけだとばかりに騒いでいいなんて大義名分には到底ならないけれど、観ているぶんにはまだ抵抗が少ない。例えるなら、首をはねられた鶏を見たあとにケンタッキーに行くのと、ただ単にケンタッキーに行くのと、それくらいの気持ちの差異がある。

一年に一回も食べられないチキンの話は置いといて、とりわけ私をイライラさせるのは「無反応」しかアクションさせてもらえないモブが描かれることなので、無反応が見えないことは、無反応が描かれるよりは、まだいい。

好かれる必要すらないバカというキャラクター

加えてバカはいい子ちゃんである必要がないので、ファミレスで腐ったパンを広げたり、ゲームセンターで床に寝転んでいても、基本的にバカの行動は許されてしまう。私が個人的に許しているだけで、許せない視聴者ももちろん居るだろうけど、いい子ちゃんである必要がないのと同様に(視聴者に)許してもらう必要もないわけです。嫌われたっていい。迷惑行為によってバカの人としての価値が大きく下がるということがない。それくらいしても不思議じゃないって呆れに似た感情がバカにはすでに向けられている。

ジミー大西のめちゃくちゃな言動に今更ツッコミを入れるのも、もう違うというか。だってジミーちゃんってああいう人じゃないですか。

だから半分ヒールみたいな、便利なポジションに居るんですよ、バカって。これは強い。

でも和紗はそうじゃない

でも和紗はバカみたいに、迷惑行為に無自覚でいることは許されていない。私が許さないってだけでもあるのですが。

和泉が好きになった人間として、恥ずかしくない人間像を示さないといけない。そうじゃないと、行く末を見守りたいカップル、応援したいカップル(応援しがいのあるカップル)として物語の主軸になってこないと思います。あんまり出しまくりたくない表現だけど、物語の推進力になってくれないのではなくて?

自分たちだけが喋っていいと思うのは危険な思想

こういうときにモブの方々はどうしてるんだろう? とよく考えます。

そこに生きていた人たちは脚本家の都合で舞台の背景物にエンコードされちゃってるのが、悲しい。NPCみたいな扱いで、献花かってくらいに単なる飾りでしかなくて、もちろん反応も示さないで。いるけど、いない人たち。

モブの存在を軽視するのが最近すげー腹立つんです。軽視された過去があるとかじゃなくて……。

やっぱりモブを描くってことは、そこは公共的な場所になるわけで。いや、公共的な場所であると示すためにモブを描いてる、といったほうが正確かしら。そして、電車というのは当然、公共の乗り物なので、自分だけのことを考えて乗るのは良くないんですよ。

だから、近くに人がいないかとか、自分たちの声はどの程度まで伝わるのかとかを頭に常に置いておきながら、話の内容や声量ってものを調整するのが、まともな人間だと私は信じてやまないので……というか電車って基本的に持続して発声する場所ではないんで。ちょっと発信する程度が限度で話を発展させることを許された場所ではないので。

自分は面白いコンテンツを発信しております的なクソな勘違いに早く気付け。

自分の部屋とか部室で話すぶんには、声量と内容にケチをつけるつもりはないですけど、ちょっとは周りの状況も考えてもらわないと。

と、だいぶ拗らせてきたのでそろそろやめます。

 

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