『ルックバック』読んだメモ

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一日置いて考えても言いたいことに整理が出来ていなくて、何から書いたら説得力が付いてるのかもさっぱり。とりあえずパーツだけでも忘れないように書いておいて、そのうち整理するかも(たぶんしないけど)

考えることは7割くらいが外部戦──『ルックバック』を読んだ人がTwitterにあげた意見や感想、とそれに付随する別のコメントなど──で、要は読者や取り巻きの考え方にむかつきともたつきと怒りの矛先が向かっていて、これがまずダメだなと思ってます。自分と、自分の思考力が落ちているいまの状況がすごくダメだなと。飛び火・流れ弾もいいとこ、というか的にすら当たってないじゃないかと。

ほんとに何から話そう。メモの上から書いていこう。

「オマージュ」の使い方

まず「オマージュ」って言葉の使い方が明らかにおかしい人がいて、たとえば「京都アニメーションの事件をオマージュしていて」とか言うとこれはほんとに良くない誤解を招く危険な使い方なので、すぐにでもやめないとまずい。「FUCK」とか中指立てるの意味もちゃんと理解せずふざけてやっているようなもんで、場によっては(アメリカとか)はボコボコにされても同情できません。

オマージュというのは、(リスペクトを込めて)既存の作品のある部分を自作のなかでなぞる行為です。原則で肯定の意味合いがあります。

だから事件をオマージュなんていうと、凶行やその手段を支持肯定していると批難されてもまあやむなしといった感じです。事件のオマージュとしてどこどこを爆破した、といった文脈なら使えます。でもそうじゃないんでしょう。

「下敷きにした作品がある」と、「元にしたできごとがある」を混同したんだと思いますが、そういうときは「モデル」、「モチーフ」を使いましょう。京都アニメーションの事件をモデルにしてる、モチーフにあるという主張なら筋は通ってると思います。真偽はおいといて。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』その他のオマージュの立ち位置

一番の大筋に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン。ハリウッド』があるのは私も思うところで、間違いないとは何に対しても言い切れないけど、蓋然性は高いと思います。

この両作品の関係には「オマージュ」が当てはまります。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が作品だから。

で、ですが。

「『ワンハリ』観てないから、よくわからなかった」と言う人がいました。

あくまでも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』はオマージュとして組み込まれているだけです。作品の根幹を成すものは別にあります。別の形で提示されています。

作品と元ネタとの関係性においては

  • 元ネタを知られてしまうと困るのが「パクリ」
  • 元ネタを知られなきゃ機能しないのが「パロディ」
  • 元ネタを知られなくても成立するのが「オマージュ」

なんて言葉がありますが、『ルックバック』に仕掛けられたオマージュに気づかなくても作品は成り立っているし、読者は読み切ることが可能なんです。

言い換えると、オマージュ元がわからないと理解ができない作品は、上手なオマージュの組み込み方ができてないと言ってもいい。

あなたが『ルックバック』のなかでわからないものがあったとして、腑に落ちない部分があったとして、それはあなたが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を観ていないからではありません。別の理由を見つけるか作りましょう。

「感動のカンニング」という大問題

そもそも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン。ハリウッド』を観ていない人間が「『ワンハリ』観てないから、よくわからなかった」と言える状況が非常にまずいと思っていて、とてつもなく大きな問題を抱えていると危惧しています。

どうしてそんな結論を自分のなかに出してしまうのかというと、自分が思考する前に誰かが”『ルックバック』に対する模範の回答”を当人の前にぶら下げたからです。

これはネタバレとは毛色が違って、私はこう感動したという体を取りながら、「こうやって感動するのが正解」というものが四方八方に飛び交っているわけです、SNSは。

当該作品を読む前からですよ。

私は『ルックバック』の公開を、「京都アニメーションの追悼作品」という知らない誰かのタグ付き称賛付きで目の前にぽんと提示されました。水たまりの泥でも引っ掛けられた気分でした。

私達は生活のリズムが全員違い、娯楽と接するタイミングも様々です。

試験時間、上映時間は全員がずれているのに、先に試験を始めた人間が、自分を高めたいために答えを周りに見せびらかす。「そこのマスにはこう書いたら点数がもらえるよ」といった具合に。

こんなことをされたら思考を働かせることができなくなります。もはや途中式に取り組む意義を放棄してしまう。

それが「推しへの務め」らしいし、悪気はないのかもしれないし、法に触れているわけではないけれど、あなたたちは(そして私は)評論家の人格を飼って、「ファスト映画」「ファスト漫画」「ファストドラマ」に嬉々として勤しんでいるんですよ。そうやって、自分の票集めを日々おこなっているんだっていう自覚が必要なんじゃないですかね。

昔から言ったもん勝ちという言葉がありましたが、いまは「ログを残したもん勝ち」なんでしょうか。

感動というのは作品と出会い頭で起こってこそだと思っているので、感動ポイントや感動の仕方まで押し付けられたらたまったもんじゃないですね。せめて、丸見えじゃなくて、扉1枚の配慮くらい欲しいものです。

自分で辿り着こうとするまえに答えが飛び込んでくる。これが感動のカンニングです。テストに出ません。

何かに触れて感動したら、もしかしたらここにも他になにかあるのかもしれない、とルーツだったり別の作品との関係性を探ってディグって掘り起こしていく。これが感動のマイニングです。

そういう掘り起こしもせず、読みかじった文字面と視たままの数字を覚えて知った気になってるようじゃあ(以下略

もっと自分のなかの材料だけで作品と向き合ってみませんか、最初くらい。まあ、それも個人の自由選択ですが。

ルートはひとつしかないし、何がベストかはわからない

「オマージュ元が分かってたらもっと楽しめたのかな」というのもおかしな話で。

たとえば楽しメーターなるものがあったとましょう。目盛り10のうちの7がオマージュ知識によって9.5になったりするわけじゃない。評価軸は別にあって、7にaとか△が付いてくるだけ。

それは別の楽しみ方もできるようになっていくだけで、作品のど真ん中の部分との向き合いはみんな同じであるはずなんですよ。オマージュというのはそれくらいのものです。

あれを先に読んでたほうが楽しめるよとか、あれを先に観ていたほうが理解が捗るとか、オマージュに関しては懐疑的です。そう思いたい人がけっこう多いけど。楽しめた自分うぃーなのかな。

オマージュ元を知ってから読むのがAルート、オマージュ元を知らずに読むのがBルートだとして、私達が通れるのはどちらかひとつしかないんです。初体験は絶対に1周目にしか存在しない。Bを通ってからAを通ることはもちろんできますが、それは2回目だから感覚は変わっています。実質2周目ではない。

自分の通った道が最善だと思い込むのは浅はか……というか危うくないかと思います。思いやりかエゴかわからないけどね。

『サマーウォーズ』も『ぼくらのウォーゲーム』も『オマツリ男爵と秘密の島』も観てなくたって、『竜とそばかすの姫』は楽しめるつくりになっていないと作品としては良質とは言えない、という見解に近い……かもしれない。

「細田守の作家性」という軸で楽しみたいなら過去作もいくつか必要にはなってきますが、それって本来は外部情報じゃないですか? 「結婚してからの新海誠は」とか、そういうの含めて。

公開日

京都アニメーションの事件との関係性について。

結果論なのか推論なのかよくわからないけど、2019年7月18日の京都アニメーションの事件がなかったとしたら(ほんとに考えても何にもならないが)、『ルックバック』のプロットは変わっていたのか(そもそも作られていたのか)、『ルックバック』の公開日は7月19日だったのか、といったことを考えると、そこに全くの因果関係がないとは私には思えない。

断罪を強いる気持ちはいまのところ大きくないが、不毛なことは考える。

着想制作執筆公開の順番がほんとに重要で、順番の認識が間違っているのかとも考えるが、『ルックバック』を「未来のある、ただ夢を追っていた、将来はたくさんの人間を喜ばせたであろう高い才能を持っていた人間が、突如として、理不尽な理由と要因によって、他人に命を奪われてしまう」作劇と言い換えた場合、

そんなセンシティブな内容を含んだ作品が、「藤本タツキが発表した作品を読む人たち」に一番響く日はいつだろうか。ジャンプ+の編集部はその答えを出して、実行したのだという考えが何度も浮かぶ。

最大効力を目指すことは市場やマーケティングでは至って普通のこと。爆弾を起爆させるならテキサスの荒野よりも、ライブ会場を選ぶほうが効果が高い、と考えるのは当然。失言。

考えすぎだと揶揄されようとも、実現可能性があるというのを私は恐れている。やろうと思えばできる、というものがとにかく怖い。普通はやらないだろう、という思いがあったとしても。

喪に服すという行為は社会規範に含まれるし、PV数(作品閲覧アクセス数)を稼ぐ行為は市場規範から抜け出せていない。

PV数の稼ぎ時でもあれば、追悼の意を表するならこの日でもおかしくないという考えもある。普通はそう思うはずである。「今日公開したのは追悼の意味合いがあるからだろう。まさか商業的な目的を優先してはいないだろう」

しかし訃報・追悼に乗じた自分語り、自分売り込みを嫌というほど目にした来た身としては、センチな心境はカモにされやすいのだなとも思う。

それでも、追悼の意を作品上で(作品のなかだけで、と付記)表明する行為は過去にあったわけで、あれこれ理屈を積み上げた気にはなっているけれど、どうしてこのタイミングなのかというのが一番ひっかかています。

まだ2年です。

じゃあ来年ならよかったのか、7年経ってからなら問題がないかというと、そんな境界線を自分の一存で決めることは出来ない。答えは目の前に転がっていない。答えが出せない問題だから、身構える。

漫画を描くことが追悼の表明だと思う藤本タツキも見えるし、そんなふうに都合よく考える読者に舌を出してほくそ笑む藤本タツキも見える。あの表紙のように、縮こまって机に向かわされ、横には編集者が仁王立ち、カンヅメ状態でひたすら漫画を書かされる藤本タツキだって見える。なにもわからない。

 

せめて一ヶ月後に公開するとかで疑いを回避できた問題じゃないかと思います。

「純文学」と「漫画」

おそらくは(そこに上下の感覚はなく)比喩として「純文学」となぞらえたんだと思ってますが、純文学と評した人が「純文学」をどう認識しているのかもわからないし、どういう用法で純文学を評したかもわからないのに、「下に見られてるように感じる」といった主張を出せるものだなと。

自身の無意識下で、漫画は純文学より下に位置していると思う気持ちがあるから(私がジャンプ+に悪い正体を期待するように)突かれたくないところを突かれて反発的になっている……わけではなく、漫画は純文学より下だと思っている人間が過去に彼の前に現れていて、今回もそのケースだと判断した、ということに終着するのだと予想している。若干の勇み足、ふっかけを感じるところである。

比喩は人間には難しい(早い)ということがわかる。

ツイッタにおいては扱いにくいというだけのことかもしれないですが。隣で「カポーティが好き」と言うと白い目で見てくるタイプの人間かもしれない(例えばの話です)。

だからきっと「映画だ」と評しても「漫画だよ!!」と返ってくるし、「私小説」と言っても「漫画だよ!!」と返ってくるのでしょう。

映画っぽさを感じる漫画だ、もアウトか?

ところで、藤本タツキの漫画が映画的だ思うことがあります。詩的とかまるで映画みたいといった方向ではなくて、映像から逆算された感覚が伺えるという意味。映像を見越した、とも言えるか。コンテっぽいと言い換えても主張としては誤差の範囲。

漫画がそもそもコンテの側面を持っているのは必然と言えます。物語の(映像の)断面を切り取ったものがコマとして並んでいるわけですから。ただ、アクションの切り取り、取捨選択が絶妙に上手いのかもしれない。

アニメーションでいうなら動画と原画の、原画。キーとなる部分が抽出されているから、読みやすさがある。ときに理解を超える跳躍についていけなくなるときもありますが(『チェンソーマン』読書時)。

ここを押さえておけば、動きはイメージできる、どういった行為でどういった心情かがイメージできる。吹き出しの言葉がなくても。

絵の強さであれば、吹き出しがひとつもないまま時間だけ(季節だけ)が過ぎていく大ゴマ4分割などが顕著だ。素人考えでは環境音などを差し込みたくなるが、それすらも一切聞こえないくらいに藤野は漫画に没頭しているのだ。

このあたりは音がない冷たさというか、漫画の特性が活きていると思う。漫画を描く作業は地味で「静」であることがより克明に伝わる。映像でも再現は不可能ではないと思いますが、そのためには”音を消す”必要がある、映画と漫画は見せ方が違うのである。

サンプリングとクリエイティビティ

作家・藤本タツキは、漫画と映画と、どちらも膨大な作品数の摂取を経ている可能性があります。でもどちらかといえば映画に比重は寄っていて、もしかしたら漫画はそこまで血肉には成っていないかもしれない。周辺調査はしていないので当てずっぽうですが、そう思わせるなにかがある。なんだろう、教えてもらっていいですか?

だから(全然繋がっていない)、私なりに無粋に苦手な比喩でもって藤本タツキを評してみると「ヒップホップだ」とか「DJだ」とか「トラックメーカーだ」だとかになるかなとも思います。「漫画家だよ!!」と言われるとそれはそうなので、何も言えません。閉口あるのみ。

つまりサンプリング。サンプリングが上手い。なんとかタランティーノに戻ってきました。素材と再構成と並べ方が非常に巧み。

カラテの置き方

カラテを姉に勧められる場面で、姉もどこまで本気だったかわからないけど、妹に進言します。ここでの漫画以外の道の提案というのは、バンドマンにそろそろ就職したらというのと同じで「聞き流すもの」「まとも側からの話で聞き入れる必要はないもの」として描かれていて、読者も藤野同様に聞き流します。藤野も一切耳を貸さず、一瞬の想像も描かれない。さらっと、ただ家族からもいまの藤野の状況は快く思われていない、という情報が前にくる。

その後、カラテキックを打ち込める藤野が現れ、分岐点を読み落としていたことに読者も気づく。女子が男性にステゴロで向かっていけるか、という疑問や反論を想定してか、理論武装に余念がない。感心するつくりである。

理論武装。徹底した仕込み

『Don’t Look Back in Anger』の”忍ばせた小ネタ”にしてもそうだし、おそらく多くの一部の読者が「ここは『チェンソーマン』の扉!」「ワンハリのジャケット!」とはしゃいでいるのはこういった綿密なパーツの連なりが面白いのだと思います。

『Don’t Look Back in Anger』がテロのあとに作られた歌だと勘違いさせそうな内容のツイートがあったりもしたけど、初耳の情報は調べて、発表した年と発生した年くらいちゃんと確認しましょうね

「8」だと2と4、「6」だと2と3で割れるけれども、「12」だと2と3と4と6で割れる。つまりより多角的に観察ができるようになっていて、「あれとこれが繋がってる、ここも繋がってる」とさぞ楽しそうである。

一時期、こういった光景をONE PIECEの読者の反応に見たことを思い出す。

そのうちに13-1だと言い出す人が現れたりもして、ここまでくると流石に距離を置きたくなりますが、20ドル札には煙が上がる貿易センタービルが描かれている、といった話にウキウキするタイプの人もいたから人間は様々です。ジョークのつもり。

作者は読者の反応を考えて作品を作る

もはや当たり前のことだけど、あまり気にしてないというか気にかけてないというか、気づいてないのかなと思う人が散見されます。

読者の反応を想定して作品を作る作者がいるという事実だけでもとりあえず認識してもらいたい。

藤本タツキがそのタイプなのか、『ルックバック』がそのスタイルで描かれたものなのかは判断できない。その企みのうえで描かれたとしても、正しく機能しているかはわからないし、狙いが成功しているかもこれまたわからない。これらは全部別の話。実際はなにも確められない。

ただ、フレイバー的な曖昧なもので感じ取るしかない。感じ取れたと思い切るしかない。本人のコメントが出てもそれも鵜呑みにしてはいけない。それが漫画をはじめ、文芸から映画に至るすべての娯楽作品を嗜む読者の姿勢だと思いますよ、私は。

そういった読者の反応のコントロールが上手く出来ていると感じるところに茫洋とした凄みが見えるし、隣合わせの怖さもあります。

読者の喜ぶ顔が見たいのではなく、喜ぶように設計したものがしっかり結果を出したことに本人が喜んでいるような、そういう怖さ。

しかもこれは完全な主観ですけど、藤本タツキには「嫌われてもいい」が完成していると思います。そんなポーズが前に出てきている。こうなったらもう「手に負えない」とでもいいますか。言いません。

覚悟がないと描けないことを描いてきているわけで。私が思う通りに藤本タツキがことを認識していればの話ですが。

この藤本タツキの手に負えなさは「怪物」と評される理由になりうると思います。

 

まとまらんな、放棄しよう。

ごめんなさい。

おしまい。

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