「アニメの演出について語らない」について語る

なぜアニメファンはアニメの演出を語らないのか、というテーマがタイムラインを賑やかしていた。

気をひかれてアンケートに答えてみると、現実や観測規模はともかく、数値として半数近くにおよぶ3174票の「語られている」という結果が観測できた(うえから3つは語られていない理由を述べた”語られていない票”なので、投票者の53%は語られていないと感じている)。

アニメファン 演出

 

こんなブログをやっているくらいなのでアニメの構造分析には少し興味があり、聞きかじったような発言もすればそういった発言を探すことにもいくらかは能動的だと自負している。勉強熱心だとは思いませんが……。

そのうえで、熱心に語ってくれる方々の存在を主張しておきたい。

アニメ視聴者(アニメファン)の構成比率としては当然少ないのでしょうが、演出について熱心に語っている人は(いまでも[もちろん昔からも])居ますよ、と。演出も内包して作品を語っている人とでも申しましょうか。

しかし、アンケートに現れた半数の意見が示すように、「演出」のムズカシさが演出への言及を遠ざける要因となっている事実も認めないといけないところではありましょう。

 

そもそも、演出とはなにか。
私からは自信の持てる答えは出せません。

 

白いワンピースで幼さを演出、色彩豊かなアクセントを取り入れ遊び心たっぷりの空間を演出、コワモテのエキストラを用意してリアリティを演出……などなど、これらは動詞しての演出である。

乱暴に言い切ると、演出は「肉付け」と「虚飾」の表現方法である。

感情をより大きくしたり、状況をより克明にしたり、「ありのまま」「そのもの」を別のなにかに変えてしまう側面もある。

人間が発見した自然はもはや「自然」ではない、という論に近い部分があるかもしれない。

もとの素体には幼さも遊び心もリアリティもほとんど実在しないか、かすかに存在しているのみであり、だからこそ素体のコアを際立たせるために「演出」が施される。しかし、かすかでも/断片的にでも コアが存在している以上、増幅も整理も可能(あとの「演出はブーストの役割である」につながる)

注目、誘導、強調、整理、増幅、整頓──。
これが演出であり、それを行う人間が演出家である。

いわばデザインとデザイナー、コーディネートとコーディネーターのような関係なのだが、アニメをはじめ映像作品を語る場において、「演出」という言葉を

  1. 動名詞としての「演出(A)
  2. 役職  としての  「演出(B)

と混交して使用することが、きちんとした理解と意味の疎通が得られなかった要因のひとつではないだろうかと推測。これは「監督」などと似た構造だろう。

 

じゃあそれをお前が教えろという話なのかもしれないが、ここからは”オレ定義”が交じるので話半分で読んでください。

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演出とは「言語外の言語」である

デザインであり、コーディネートである「演出(A)」ですが、私は「演出(A)」について「ブースト」の働きを担っていると長らく認識してきました。

表現したいものがひとつあったとしたら、それをどのように見せるか.どのように描けば伝えたいことが伝えられるか.それらをいかに効果的に画面に成立させることができるか──様々なアプローチを用意して最適解を探す。見てほしくないものを見つからないようにする、もありますね。

それが「演出(B)」のお仕事ではないか。

言葉が常に最適解ではない

たとえば、男と女がベンチに腰を落ち着かせている場面があったとして、少しの間のあとに次のセリフが「付き合おう……」だとしましょう。

なにか絵がぱっと浮かんだかと思います。

それは男の顔のアップかもしれないし、女の顔のアップかもしれない。アップに限らずにどちらかの肩越しのショットだったりもするでしょうし、女の子のピクッと反応した足元だけのショットかもしれないし、近くにある噴水がバぁーと勢いよく吹き出すなんかも面白みがあっていいかもしれない。噴水を画面に入れるにしても、噴水だけを大きく映すのか、引きの画面で男女とベンチも画面に含めるのかで見た目が大きく違う。

見た目が違うということは与える効果(視聴者が受け取る効果)も変わるわけです。

いま、数パターンの絵が浮かびましたが、(おそらく)これらはまだコンテのアイディアの領域を出ておらず、脚本から上がった状況とセリフ書きを、それとわかるようにひとまず画にしたにすぎません。

ストーリーの流れや画の流れを見極めて、いまこの山場における効果をより高めるための取捨選択の作業が演出(A)となる──はずである。取捨選択とブラッシング、つまりデザインやコーディネートといった作業である。

これは画面の構図や配置にとどまらず、セリフを発するタイミング・スピード・抑揚にまで管轄は及ぶ──はずである(おい

では、「効果の高い演出〈アプローチ〉」とはどういうものなのか。
説明してみろコノヤロー

演出と効果

求める効果が違えば作り出す方法も違うことを、告白のアプローチを例題に考えましょう。告白を演出してみましょう。

相手に好意を伝える方法〈アプローチ〉は無数にあります。

  • 「あなたのことが好きです」
  • 「結婚してください」
  • 「味噌汁を作ってくれ」
  • 「月が綺麗ですね」
  • 「ウォーアイニー」

言語を発する方法以外にも、

  • 「指輪の箱を開ける」
  • 「バラの花束を渡す」
  • 「婚約届を見せる」
  • 「壁に文字を書く」
  • 「手話」

さまざまなアプローチがあって、ひとつ線引をするなら、情報の整い具合に伝わりやすさの違いが出ると分析します。

整理されて表現されたものは直截的に伝わりやすく、
遠回しに表現したものは想像の余地が残されている。

大事なのは、「伝わりやすい=優れている」というほどわかりやすい図式ではない、ということ。

遠回しな表現がもたらす多少の難解さがより強い快感を生む場合も多々あります。婉曲や反語や換喩による想像の楽しさ、のようなものです。

 

そんなところにカメラを置いてもいいのか、そんな音の使い方があったのか、間の開け方が、セリフのかぶせ方が、色の挿し方が、背景の動かし方がetc、そんな伝達方法があったのか、そんな表現があったのか…………そういった新たに惑星でも発見したかのような出逢いの快感である。

演出による快感を言い換えると、「匂わせ」や「紐付け」の快感になるのだろうと思う。

花が散ることを命が散ることと紐付けたり、信号機の赤と青を心情の停滞と発進にリンクさせたり、そういったものだ。これは言語的な比喩イメージからのアプローチになる。赤のペンキが床にこぼれる→どこかで誰かが傷ついた、というのも血が赤いことを用いた暗喩のリンクであるように。

別のアプローチでは、カメラが引いて対象を遠くから撮ると、対象を突き放したような画面になる。これにより空いた距離感が「対象は孤独だ」というメッセージを演出するのだが、この場合は比喩からの作り方ではなく、「孤独」の実体を整理/強化したものといえる……と思う(おーーーい

求める効果で採用する(べき)演出方法は変わる

”べき論”かましてすみません。よかですか?

整理したうえでダイナミクスを求めるのか、
婉曲や換喩で味わい深い()ものとするのか、

これが「演出(A)の領分であり、そこに技巧や感性の面白みを出せる人間が優れた演出家──つまり優れた「演出(B)と呼ばれるのではないでしょうか。と、ワタシはワタシは思いついたようにテキストにして頭のなかを一回整理してみたり。

 

以上、ほとんど想像と聞きかじりの知識なので、明らかに訂正スべキ箇所などあれば仏の心でご指摘願います。

おしまい。

 

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