【メモ】物語があれば交流があるのは当然である。【映画とかアニメ】

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人間交差点1巻

雑日記。まとめきれず不時着しました。軟着陸ならぬ難着陸。

今期も視聴完走しそうなラインナップがだいたい定まってきました。脱落・弾いてしまった枠のぶん別の何かで補充しようと、TSUTAYAで一週間レンタルした三本を二日目の晩に返却したんだけど、借りたときと同じ店員さんでなんか気まずかったな。向こうは覚えても気にもしてないと思うけど。そういうことばっかり考えちゃう。 目を見ての交流がニガテなんです。

交流とは何か

[交流]──今期のラインナップにはそんなものがテーマとして盛り込まれているような気がしている。

もっとも、サンプルがふたつないし三つしかないのに「なに最近、〇〇なの流行ってんの?」とかかんたんに全体を見渡しているかのように口走るキッズに、私は心底ムカつきをおぼえる。そんなものを見かけるたび「ああはなりたくない」と閉口していたが、私もいままさに同じことを言っている。しかも言葉だけ増やして正当化を図っている。たちが悪い。伊知川累。

「他人に厳しく自分に甘く」がダサい服を着て歩いている。

人と人が、物質が物質が、量子と量子が接触すればある反応が生まれる。それが広義的個人解釈ではあるが交流(交わり)と定義する。接触が回避された場合、それは「すれ違い」と呼ばれ、起こらなかった[交わり]といえる。つまりこれもまた交流のひとつのかたちなのである。
ゆえにこの世の全ての事象は[交流]なのである──QED.

なつ「真面目にやれ」

つまり全てのアニメにはコミュニケーションの要素が含まれてますよね。パノラマの風景画が延々流れるフィラー動画とかじゃない限り。サンプルとしてふたつや三つじゃない。だから私の発言はキッズのそれとは一味違うぞ。という苦しいアプローチ。

なつ「要はあれでしょ? メイドラゴンと亜人ちゃんの話がしたい、と」

まあそういうことになる。

キャラとキャラがいれば、そしてその間に物語をつむごうとすれば、それはもう交流を生まざるを得ないんですよ。副産物です。だからことさら交流そのものを持ち上げることって少ないのかも。だって常にあるからね。「〇〇の交流を描く」なんて文句も、「まあ描くだろうなあ」なんて冷めた受け止め方をしてみたり(「このイチゴショートにはイチゴが乗ってます」みたいな)。
あとはその交流の性質がいかようかという観点から、特殊性(特性.要素)のようなものを見出すことになる。そうしてカテゴライズの作業が進んでいく。

というような現状への認識。

だからセイレンで描かれる恋愛も交流だし、幼女戦記で戦争してますけどあれも交流なんですよ。軋轢や不和にまみれていても交わりがあればもうそれは交流。 そろそろしつこいかな。

そしてメイドラゴンと亜人ちゃんで描かれている交流は、数ある交流のなかやや色味が違う。

異文化・異種との交流。マイノリティとの交流。

思い返せば2016年のアカデミー作品賞『ムーンライト』も貧困と同性愛を扱っていたりして、そういう向きというか潮流を密かに感じてます。アクチュアリティってこういうことなのかな。潮流→流れ→流行り。結局キッズとおんなじこと言ってますね。はっはは。

物語の要素をリスト化してアニメ業界の現状を把握しよう

マクラのつもりで交流の話をしようと思ったら手綱が何処かへ行ってしまいました。

いま私はある分析を行っています。隠すようなもんでもないんだけど、完成してから披露したい。が、発表できるのはもう少し時間がかかりそう。しかも面白さ担保されていないってまさに苦行。でもやるんだよ!の精神ですかね。

きっかけは岸誠二と上江洲誠の共著を読んだときに思いついた。つまり着想から一年弱経ってる。じっくり寝かせばいいものができるわけじゃないってのは『ビビッドレッド・オペレーション』で学んだ。

ビビオペも面白い回はあったんですけどねー、「やー!!」とかほんとヒドかったし……。
そのなかでも8話はよかった。四宮ひまわりがね。いまかばんちゃん役を演ってる内田彩ですけど。いい演技でした。物語としては不時着でしたけど。ははは。

by カエレバ

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